6月13日から禁煙し、バレンタインデーをもって、禁煙8ヶ月目に突入いたしました。
禁煙については定期的に書いていこうと思っているのですが、なんかこう、あまり感想も意見も出てこないんですよね。
禁煙は、成功するための努力話、挫折した話をよく聞きますので、知らずに「すごいこと」「劇的なこと」「ビフォーアフターがすごい」といった妄想を抱いてしまうのかもしれません。
今から思うと、タバコは、深く根が張り、完全駆除が難しいカビのようなイメージです。
肺胞に根を張ったニコチンまたはタバコの煙成分の駆除には、根気だけは必要だと思います。
お風呂場などと違い、カビキラー的な薬は存在しません。なので、大切なのはイメージで、タバコを吸いたい、という気持ちを乗り越える度、肺が、肺胞がキレイになってゆくことを、ちゃんと頭に描くことが大切です。
一本を我慢したことで、肺胞のひとつがツルッとキレイになる、とイメージする。
あ、調べてはいけませんよ、肺胞の数は。
肺胞がキレイになってゆくと、どうなるのか、というと、僕の経験から言いますと、特に何も変わりません。
すごく晴れ晴れすることもないです。それでいて、我慢している、という気持ちだけは根強く続きます。
汚い話ですが、ノドに何かしらが絡む、という現象も、タバコをやめたらなくなるとばかり思っておりましたが、なんら変わりません。
やめて半年ごときでは、肺活量が回復するわけもなく、軽々と階段が登れるようになった、とかもありません。
トータル的に観察すると、人がなびきやすい「現世利益」がないんですね、禁煙という行動は。
健康には寄与しているのでしょうが、これは自覚が難しい。
例えば、ダイエットのように(これも人により差はありますが)、目に見えて体重が減ってゆくとか、体型が変わっていく、という現世利益があれば頑張りやすいのかもしれません。
タバコは、今現状の僕が、やめたことで得られた利益は、喫煙者ではない、という自称の状態だけです。喫煙者の頃に感じていた引け目が一切ない、という開放感のみです。
そして、この開放感と、喫煙時の気持ち良さを天秤にかけるとどうか、というと、実はあまり均衡していないと思っています。
タバコをやめたことに何らボーナスはつかないので、先ほど挙げた、喫煙者じゃない、という開放感と、禁煙がんばった、という、子どもをあやすかのような身内の称賛ぐらいで、それのためにタバコを我慢する、というのは、努力に対する報酬が見合っていないな、とは思います。
とはいえ、喫煙の多くは、自発的に始めたという意味で、自業自得の範疇を出ません。僕から上の世代は、生きている中で、タバコに対する世論がガラッと変わってしまったので、そういう苦労はあるかもしれません。
先日、また喫煙する夢を見ました。
運転しながら喫煙しており、悪いこととわかっているのに、横にいる配偶者が何も言わないのがかえって恐くて、早々にもみ消す夢でした。
まだまだ、煩悩を捨てきれていないようです。