例えば。
自分に何かしらの才があると仮定した話になりますけども。
よくある、五角形の「能力値」を示す図がありますね。
あれ、私ってかなり、いびつなんだろうなぁ、と思うのです。
1か所だけが、トゲのように飛び出していて、他はほぼ中心に集約している。
こういうキャラクターは、使い方がかなり限定的になりますよね。
その、ひとつ秀でた能力がとても汎用性が高いような、他の個別能力の上位に位置するようなものであればよいのですが、そうではないピンポイントだったり、そもそも必要とされない能力であったりすると、その場での私は、無能と同じです。
私は、計画性がありません。
緻密な計算も苦手です。
先を見る才もありません。
豊富なアイディアもなく、さらに、保守的です。
特殊能力もないし、磨いてもこなかった。
こういうパターンは、自分の何かしらの能力が高くとも、それを自分でプロデュースすることが難しいので、縁のない場所で、無能扱いされることもあるんだろうなぁ、と。
例えば、そういう不遇をかこい、今、私の所属する会社に勤める人は、どれだけいるのだろう。
なので、どれだけ評判が悪い社員でも、私としては全てにおいて無能ではないんだと思います。
私は、引っ込み思案属性があるので、自分の才を活かす場面がなければ隅っこでおとなしくしているのですが、中にはそう出来ない人もいるでしょうし、それが悪評になってしまう人もいると思います。
で。
結局、そういう悩みを抱える人がたどり着くのは、自分を変える努力をしましょう、という金言だったりするわけですが、価値観や概念を変えるのは当然、簡単ではなく。
中には、そこまでして社会に貢献したり認められることに、価値を見出さない人もいるかもしれないし、それを、だからダメなんだ、と言い切れる自分もいません。
映画などで、ハッピーエンドへの最後の決め手は、主人公の変わらぬ決意だったりしますし、それには、逆境でも捨てない「自分の在り方」があるわけで、ホイホイと自分を変えることだけが答えではないのかな、と。
ただ、それは頑固者とか、不器用と紙一重だったりします。逆に、迎合と言われることもあるかもしれません。
こんな私でも、変わったところはあります。
ただ、それがよかったのかどうか、は、私にも、まわりにもわからない。
だから、変わることを正義とはしませんし、変わらないことも、ひとつの決断として受け止めていきたいと。