当ブログは、雑記ブログと呼ばれる類だと思っているが、日記ブログとは思っていない。
実際、身の回りに起きたことをネタにすることは多いが、その日その日の出来事として記すことはあまりない。
ただし、私が単純に「日記を書かないだけ」というのではなく、おそらく日記を「書けない」という表現が正しい。
日記を書くにも能力が必要だと思うし、特にそれをブログにしようとなると、他人が読むことを前提としたものになるので、ますます難しいと思う。
なぜ、日記ブログが「書けない」のか。
まずひとつに、書き留めるべき出来事が、毎日は発生しないということ。
例えば「今日は〇〇君と〇〇をして遊びました」という、小学生が夏休みの宿題で嫌々書かされているような一行日記でよければ、可能だと思う。
可能ではあるが、このスタイルで日記ブログとするのであれば、その「〇〇をして」の部分がすごく個性的であったり、あまりに日常的ではない必要があるだろう。
読んだ人に「なんでそんなことをしているのか?」という興味を抱かせたり、「そんな生き方(暮らし方、遊び方)があるんだね」といった関心を与えることが出来ればよいと思う。
「今日は、バスと電車に乗って会社へ仕事にいきました。パソコンを使って、書類を作りました。夕飯は〇〇でした」
私の本気の日記は、こんな感じになると思う。
次に、書き留めるべき出来事を見つけられるほど、センサーを鋭敏にして日々を過ごしていない。
例えば、仕事の中でもそうだろうし、通勤途中でもそうなのだろうが、何か日記に記すべき物事がないかを意識するかどうかが大事だ。
怠惰に流れる景色を眺めているだけとか、人の反応をやり過ごしているだけでは、書くべきことは見つからなくなる。
ただ、私の場合はそのような目で何かを発見した場合には、それをネタに、それだけを取り上げたブログを書くことになるので、広くは日記と言えるかも知れないが、その日をちゃんと記しているかどうかはわからない。
そして、書き留めるべき出来事が発生するような、意欲的な生活をしていない。
上記したが、通勤して、仕事して、帰ってきて寝る。その間に、何か新鮮なことがないかとか、こんなことをやってみた、といった意欲的な行動は、私には皆無だ。
例えば、帰宅途中に、気になっている飲食店に寄ってみた、とか、近所のワンコと仲良くなってみた、とか、そういうことを日々考えたり見つけたりしながら生きていると、自然と日記も楽しいものになるだろう。
私自身は、当ブログで何度も繰り返しているが「面倒くさがり」なので、わざわざ好奇心から動いてみる、ということをほとんどしない。
仮に何かをやろう、という意欲があったとしても、それは大半が「帰宅後の自宅で」などが大半なので、通勤途中での発見は少ないし、発見するような寄り道もない。
仕事中は、これも幾度もブログにしているが、立場が浮いていたりするので、こうして隠れてブログを書いていたりする有様なので、当然、特筆事項はない。
日記を書ける人は、日々を意欲的に過ごしているのではないか。
限られた時間を、楽しみとか、発見とか、そういうことに費やし、何か自分の興味をそそることがまわりにないかアンテナを張り、時には日記のために何か行動をする。
偏りのある日記感かもしれないが、そんな気がすると共に、私は別に、日記にもならない日々が、嫌なわけでもない。
私の人生観として、生きるっていうのは特筆することじゃない、みたいな感じになっているのだろう。
なので、リンクするように、私は自分や友人などと撮影した写真は少ない。というか、ほとんどない。
写真というのも、何か「非日常」を形に留めておくためのツールとして私の中で位置付けられているからだろう。
日記に書き留めないような日々の中では、写真で留めることもないのである。