やる気とか、意欲とか、そういうのって、エンジンの回転数をあげる、つまり燃料みたいなもので。
心の中にエンジンがあるようなものだけども、そのエンジンは、私という人間の、様々な場所へその動力を伝達している。
何かしらの動作ひとつから、その動作をするための動機付けとか、あれこれ思い描く空想、妄想、充足感を得るための感性も、このエンジンから動力を得ている。
そんな中で、頭の回転というのも、エンジンと繋がっている部分だと考える。
やる気に満ちて、まるで暴走族、いや、今は珍走団って言うんだったか、そんな彼らのバイクと同じ感じで、無駄にエンジンがうなっていると、連動して頭の回転も速くなって、いろんなアイディアが浮かんだりするのだろう。
だから、心のエンジンがアイドリングだったり、不調でプスプス言っていれば、頭の回転も当然アイドリング程度で、え、自分ってこんなに考えることが出来ない人間だったか、と、愕然とすることもあるのではないか。
最近の私は、実はそんな自覚があって、数年前と比べ、明らかに発想が貧困になったし、それで焦りを感じるものの、だからどうする、という発想も出てこず、一介の指示待ち人間になってしまっている。
そのきっかけらしきことはあったのだが、本題とずれるので、ここではおいておく。
多忙なポジションから閑職へと移ったからだ、と、最初は思っていた。
次に、年齢のせいだと考えた。単純に、衰えたのだと。
しかし、同世代や同期に近い人達が、立場は変わっても相変わらずバリバリやっているのを見ると、これも違うな、と。
そして、今、原因として考えているのが、燃料の枯渇である。
今の立場では、やる気とか、意欲が湧かないのだ。
いや、私がこの課を変えてやろう、という思いが、たまにムラッとわき上がる事もないわけではない。
ただ、まぁ、課自体の扱いが微妙だし、そんなところで一人暑苦しくなっても、かえって浮いてしまってやりにくくなるだろうし、何より、変えるなら途方に暮れるぐらい大変であるし、そのためのアイディアを生み出す必要もある。
そんな保身も手伝って、ムラッとわき上がる思いは、もって一時間ぐらいのものである。
やりがいがあるとか、がむしゃらになれる場所を得たら、エンジンはその回転数をあげるのだろうか。それに伴い、この頭はまた回転をはじめるだろうか。
その立場になっていないから、答えはわからない。
わからないから、今のところは、そうなのだ、ということにしておく。
世間でよく言う、自分の本当にやりたいことは何なのか。
最近、よく考えることのひとつだ。
おそらくだが、今まで見向きもしなかった事柄、おおよそ私らしくないところに、答えはあるんじゃないかと思い始めている。
とはいえ、この頭、この心では、それを見つけることも、突っ走ることもできない。
なんにもしていなくても、ストレスは溜まるものである。