kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

立つ鳥。

ガラにもなく、というわけではないのですが、最近は、寿命とか、残された時間ということをよく考えるようになりました。

 

体感する“時の流れ”が、日に日に加速しているように感じるからです。

 

娘が中学三年生なのですが、中学の三年間って、けして短くはなかった。思い出がたくさんある。

 

でも、中年などと言われるこの歳になっての三年間って、あっという間です。

 

それとも、年齢ではなく、生きることへの思いとか、ひたむきさとか、そういうものの違いでしょうか。肉体的な問題ではなく、精神的な問題というか。

 

 

残された時間、と書くと、死ぬのが怖いとか、若返りたいとか、そういうニュアンスになってしまいますが、やや違っていて、残った時間で自分は何を成すのだろう、というのが気になります。

 

夢だのといった、だいそれた話ではないです。

 

もはや“締めくくり”に向けた歩みも考えないとならないと思っている中で、自分がいなくなった世の中を想定しながら足を繰り出すのは、なかなか難しいですね。

 

立つ鳥跡を濁さず、と言うと大袈裟ですが、私が生きているだけで、細かく、そしてとめどなく、さざ波立ったりして湖面を乱しており、これはまさに“跡を濁している”なぁと。

 

なので、立つ時には、水面も静かにおだやかにしたいものですし、できれば汚した環境はできる限りキレイにしたいのはやまやまです。立った後、痕跡が残らないのが一番ですね。

 

 

まぁ、どんな環境であれ、最期の時から先の“この世”は気にしても仕方のないことです。愛する子孫がいたとしても、自分がいなくなってから先のことは、わからないし、関われないですからね。

 

 

だから、別に跡を濁しまくってもいいわけです。

 

借金しまくって散々豪遊して、あの世に逃げてもいいわけです。借金を子孫に押しつけようが、回収出来ずに業者が困ろうが、一切合切、縁が切れますからね。

 

 

でも、多くの人は、そのような選択をせず、むしろ子孫がいれば、子孫が苦労しないようにと身の回りを整えておいたり、そうでない方も、役所の方や親戚に迷惑をかけまい、とあれこれ気遣ったり。他人事の様ですが、人ってすごいなぁ、と思います。

 

 

とはいえ、私もそういう方向性の“締めくくり”について考えることが増えてきたわけです。

 

正直、そのために努力をしないとならない、というのはなんか違うような気もしているのですが、性格も影響してか、不安要素として心に引っかかっており、それが徐々に成長しています。

 

 

ま。

 

体感としては、明日にでも寿命を迎え、このような悩みを、まさに昨日のことのように思い出すのでしょう。

 

さて、最期の時、私は今の自分を、どのように思い出し、どのような感情を抱くのだろう。

 

微笑むのか。

 

唇を噛むのか。

美しく、潔く飛び立てるのか、も課題。