今の時代は「情報」が溢れかえり、求めるでもなく、それら情報に触れて生きている。
玉石混淆でもあるし、時には運命的な情報との出会いもあるし、良くも悪くも、踊らされる、という場面が多い。
特に、フィルターのかかっていない情報は、真実を伝えるとともに、現実の厳しさをも伝える。
昔なら、のほほんと暮らすことが出来た立場の人が、不安に煽られ、心を乱してもがき続ける、というシーンも、今の情報社会で、多くあると感じる。
不況の入り口でまさに辛酸を舐めた人は多いだろうし、それらの人が、子々孫々、その苦労、苦痛を伝えようと思えば、子は、孫は、やはり多くの情報をかき集め、常に身の振り方を考えながら生きるようになるだろう。
そして、そのための情報というのは、現在ではまさに掃いて捨てるほどある。
情報に接することなく、のほほんと暮らし、ある日突然、奈落の底に突き落とされる。
日々情報をかき集め、生き残りを考えて常にそのための活動をし、間違えてやいないかと、生き方の予習復習を欠かさず生きる。
どっちが楽しいのか、正しいのか、たまにわからなくなる。
今、息苦しいのであれば、それは、情報にまみれ、余裕、遊びがない社会で、窒息しそうなのだろうと思う。
情報は、常に不安を煽る。
どれだけ万全にしていても、その隙をついて、不安要素をねじこんでくる。
人生のゴールをおだやかに、というのであれば、やはり窒息しそうでも、そこまでの過程をうまく泳ぎ切る必要があるし、窒息しそうなストレスに勝てないのなら、ゴールのことは考えない方がいい。
そして、いずれを選ぶにせよ、それを推奨する情報、否定する情報が溢れていて、否応なく、それらに触れて生きていかねばならない。
そして、情報に触れ、取捨選択しながら生きていくにあたり、そこに師はいない。
溢れる情報の中から見つけ出した師がいるならば、それは見つけ出したのではなく、見つけるよう仕向けられていたのであるし、また、師ではなく、ただのビジネスパーソンである。情報の海に、釣り糸をたらしていただけのことである。
私は、賢くもないし、真面目でも、努力家でもない。
こういう人間にも、昔は何かしらの生き方が用意されていたのではないかと最近思う。そして、踊らされ、操られ生きているような生活でも、幸せを感じられる方法論というか、形があったんじゃないか。
現代は、ごくささやかで、質素な幸せであっても、情報は容赦なく不安を煽ってくる。
そして、大地に根付き、日々を大切に過ごしていた敬虔な農民が、ある日、荒海にボートを漕ぎ出し新大陸を求めてしまうような動機づけをされてしまう。
荒海であっという間に遭難し、人知れずいなくなってしまった人も、多数いるんだろうな、と思う。