kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

伝統と先進。

古くから続く、というのは、それ自体に価値を見出す人がいます。

 

それを、歴史とか伝統と呼んだり、文化、文明と言ったりするかもしれません。

 

 

また、続けてきたことをやめる、ということに、勇気を伴う人がいます。

 

やめる、というのは、一種の「取り返し」がつかない行為でもあるので、同じものを後日に復活させても、それは連綿と続いていない、という意味で、全く同質で復活しても、伝統を損なわずにいられるものではありませんね。

 

ビジネスなどの世界では、常に新しく、最先端である必要があり、採算性や利益の拡大のためには、伝統であっても容赦なく捨てるでしょうし、場合によっては伝統と最先端技術の融合という形もあるかもしれません。ただ、それについて、伝統を重んじる人が「伝統が守られ続けている」と考えるかはまた別の話ですが。

 

 

同じヒトの中に同居する二面性なのか、ヒトそれぞれに種類があるのか。

 

ひとつのことについて先進的でも、ある部分では伝統を重んじる、という複雑さもあったりするのでしょうし、では、自分が捨てようとしている伝統と、守ろうとしている伝統の間で、どのような情報処理、演算処理が行われているのかは、わかりようもありません。

 

 

どちらが正しいとは私も言えませんが、とりあえず言えることとしては、日本は、そのような「伝統」がたくさん転がっている国、と言えるのではないでしょうか。

 

そこに、誇りを感じる人もいるでしょうし、邪魔くさい、発展を妨げる悪習と捉える人もいるのでしょう。

 

 

例えば、戦争の仕方は、否応なく変わりました。

 

剣や槍、弓矢、騎馬で戦っていた時代と、銃を持ち、爆弾、迫撃砲などの爆発物、戦車に戦闘機というのでは、必然的に兵隊の並び方から歩き方まで違うでしょうし、時代錯誤な伝統的戦術を守っていても的にされるだけです。

 

ただ、その技術を何に費やすか、というところでは、古くからの伝統や歴史を守る、という動機もあるし、それらを破壊して新しい伝統の始まりを作る、というのもあるのでしょう。

 

 

 

私は、自分で考えずに盲従するタイプですので、当たり前に存在するものには、便利・不便とか、効率がいい・悪いで考えたことがなく、疑問にすら感じずに過ごしております。

 

伝統は、伝統、というだけで利をもたらすものなのか。伝統といえど、利を生まないものは淘汰されていくべきものなのか。

 

私自身の意見はありませんが、なんとなく、イギリスの戴冠式関係ニュース記事のひとつに触れ、ふとそんなことを考えました。

これも、伝統ですかね。