廃線の線路って、いいですよね。
いえ、たんなる好みの話です。
身近な鉄道が廃線となったら困ります。廃線は無い方が、いいはいい。
幼少の頃、1年だけ住んだ街の駅に、隣の工場に続く、使用しなくなった引込線がありまして。分岐から少しのところ、かつては踏切だっただろう名残のような場所を通って、日々その駅の改札に向かっていました。
その踏切の名残のよう所からもう少し先で、引込線の鉄路は撤去されていて、だから、その行き止まりの所まで、線路を踏んで歩くことができました。それが、子供心に妙に興奮し、また考えさせられるものでした。
この引込線は貨物しか走らなかったでしょうけども、旅客輸送の鉄道の線路であれば、そこにかつては賑わいがあり、多くの人がその線路の上を通過したわけで。
何も言わずに佇む赤錆びた鉄路と、以前ならその騒音でこの場を賑わしていた鉄道がおらずに、しん、と静まり返ったその景色は、栄華必衰の理を表す、というやつだなぁ、と。
まぁ、鉄道が廃線になったからと言って必ずしも衰退した、とは言えないわけですが、多くの場合は赤字路線だったりするわけで、郊外であることも多く、もともと鉄道の走る音しかしないような山深いところでは、なおさらそのように感じてはしまいます。
とはいえ。
僕は、実際にそのような廃線を見に行くほどのマニアではありませんので、旅先でたまたま出くわすとか、旅客鉄道ではなく、先ほどの貨物線だったり山中のトロッコだったり、というぐらいしか経験はありませんが、これらは輪をかけて栄華必衰を伴っている気はします。
僕が、線路だの廃線だのが好きなのは、そんな、僕好みの哀愁が漂うことと、僕の人生の多くの時間を過ごした実家が、某私鉄沿線の線路際に立地していたからかもしれません。考えてみれば僕は、鉄道のある風景から離れたことがないわけですし、そこは首都圏、十分に都会の中の鉄道でしたから、賑わっている方の線路を見て育ったせいもあるのでしょう。
音といえば、風の音と、その風が揺らす木々の音、動くものと言えばそれら木々や草花、という、静まり返った世界に佇む錆びた鉄路は、僕の知る鉄路とは対極にあるものです。
極端に言えば、そこにあるのは、未来の人類の姿なわけで、そこにひとつの答えが含まれている。
大袈裟ですが、なんか、そんなことを考えさせるのが、現役だろうと、廃されていようと、線路だなぁ、と思うのです。