トロッコ問題、というのがあります。
暴走する無人のトロッコ(路面電車)があり、その行く先は線路が2つに分かれ、片方では僕のような無能、無気力なオッサンが5~6人、ダラダラと線路改修作業をしている。もう一方では、20代の、いかにも有能そうな若者が、一人でキビキビと線路の点検作業を行っている。
そして、貴方はちょうど線路が分岐するところにおり、線路の切り替えポイントを動かすことが出来る。
トロッコの暴走自体を食い止めることは不可能であり、このままでは「無気力オッサンズ」か若者、いずれかがトロッコに巻き込まれて命を落とすことになる。
さぁ、あなたはトロッコをどちらに向かわせるか。無能・無気力な複数の命か、将来有望な1つの命か。
…という、思考実験ですね。
思考実験なので、現実でこのような場面に遭遇することは万人に一人もいないわけですし、実際、この場面に出くわして死亡事故が発生しても、この「分岐ポイントにいるあなた」は、罰せられることはないと思いますけども。
とはいえ、似たようなシチュエーションはあります。
いえ、命のやり取りはありませんが「どちらを取るか」という取捨選択のシーンです。
僕自身、忸怩たる思いがあった景色でしたので、書き留めておこうと思いました。
僕はバス通勤で、出勤時は終点のターミナル駅まで乗りっぱなしです。
通勤時間なので満員となっているバスから行列になって降りる際、優先席に座っていたであろう、杖をついたおばあちゃんがフラリと、皆が降車している後部ドアのそばに来ました。
優先席からなので、他の一般席の客とは流れが逆で、行列の横にポツッと立っていることになります。
これが若い人などであれば、様子を見ながらスッと行列に入り込んでくるのでしょうが、足がおぼつかないおばあちゃんはそれが出来ない。
良い行いをするつもりであれば、足を停め、おばあちゃんに道を譲るべきなのでしょう。
なんなら、降りるのを手伝うべきでしょう。
そうすれば、おばあちゃんは自分のペースで降りることが出来るし、無駄に全乗客が降りるまで待つ必要もありません。
ですが。
僕の後ろには、時計を見ながら待っている10人以上の方々がいます。
僕がおばあちゃんに道を譲れば、おばあちゃんは助かりますが、これらの人は、余計に待たされることになります。おばあちゃんの足腰の感じからも、けっこう降りるのには時間がかかりそうです。
すると、もしかしたら他のお客さん達は、乗ろうと思っていた電車に間に合わなくなるかも知れない。罵声が僕やおばあちゃんに飛ぶかも知れない。
とっさにそんなことが頭によぎり、また、おばあちゃんもはなから最後まで待つつもりの雰囲気だったので、つい、足を停めずに降りてしまいました。
これは、おばあちゃんを犠牲にし、複数人の「僕の後ろの人」を助けた(大げさ)、というシチュエーションになります。
車の運転中でもあります。
脇道から、車が一台、入ってこようとしている。
すぐに気付いたので、まだブレーキをかけて道を譲ることが出来ないわけではない。ただ、バックミラーを見ると、僕の後ろは後続車がいない。
この場合、双方にとって「時間的に一番合理的」なのは、譲らずに僕がさっさと目の前を通過することです。
譲る場合、まずは僕が減速しますので、僕が一定のポイントまで到達する時間は当然、増加します。
そして、譲られる方も、譲ってくれているのか、を見極める時間がありますので、僕が減速してもなお、動き出すにはまだ時間がかかる。
結果、どちらにとっても、余計な時間がかかってしまうわけです。
しかし、世の中には「譲り合い」という運転マナーがあります。譲らなかった、という心の呵責が、僕の側に残る可能性がある、ということになります。
このような「プチ・トロッコ問題」は巷にけっこうありますね。
多くの場合で問題になるのは、それが合理的かどうか、よりも、良心の呵責であったり、負い目、後悔、といった心の中のことです。
AIならどういう判断をくだすのか。興味があります。