kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

ゴミ屋敷②。

だいぶ前に、ゴミ屋敷の話をしましたがその続きです。

 

僕限定、僕の妄想話です。

 

 

僕にはゴミ屋敷メーカーとしての素質がある、という話をしました。

 

一応言い訳をしておくと、ゴミ屋敷を完成させたことはありません。ただ、素質は確実にあると思いますし、キレイに家を保っているかというと、全然そんなことはありません。

 

 

さて、この僕の素質についですが。

 

ゴミ屋敷のメイキングにおいては、部屋が散らかっているのはわかっているんですよね。汚れていくのは自覚できている。

 

で、片付けなきゃいけないってのも、わかっている。

 

でも、じゃぁリアルには何を考えているか、というと、片付けのことではなく、どうやってゴミをよけて部屋の中を移動するか、とか、動線を確保するぐらいにはゴミをよけておかないといけない、とか、そういうことを考えている。

 

その延長で、空きペットボトルを効率よく積み重ねる方法とか、横になる場所を確保するための平らな床(ゴミ)の作り方とかを考えます。

 

 

これって、考え方の性質とか方向性なんだと思うんですよ。順応性とか適応性と言えば、聞こえもいいですよね。今ある環境でどう生きるか、ですから。

 

仕事でもよく、人からアドバイスや指摘をもらい、そういう考えは浮かばなかった、とか、どうしたらその発想にたどり着くのか、とか、そういう驚きがあったりしますが、メイキング中のぼくには、片付ければいいんだよ!という意見はそれに近い。

 

今ある環境にどう順応するか、という方向で考えてしまうので、環境を変える、という考え方が出てこない。

 

だから、今いるこの部屋も、そういうもの、ということになり、なんで散らかったかとか、そういうのは考えなくなります。今ここがスタートなわけですからね。

 

 

あと、変な、偏った責任感というのもあるかなぁ、と思っています。

 

自分が発生させたゴミに、変に責任を持とうとする、というか。

 

意味がわからないと思います。

 

具体的に、では、そのゴミがあることの責を負うのは誰か、ということです。

 

当然ですが、家の中にゴミが存在している限り、そのゴミへの責任は僕にありますね。

 

しかし、さっさと袋に詰めてゴミに出してしまえば、少なくとも回収されてから先は、そのゴミを管理する責任から解放されるのです。

 

ちょっと説明しづらいニュアンスなんですが、ゴミにだしてしまえばその重責から解放されるのに、なぜか、ゴミに責任を感じてしまう。ゴミを発生させたことが既に悪である、とでも言えば良いでしょうか。

 

そして、責任からの逃避、見て見ぬふり、となるわけです。

 

ゴミが積み重なったときにはもう、視界の中はすべて罪ばかりです。

 

 

病んでいるとか、そういう風に考えるのも方法のひとつなんだと思いますが、それ以上に、皆が抱える「心の偏り」なんだと思います。

 

ゴミ屋敷を作る人も、潔癖症で家がメチャメチャ綺麗な人も、偏っている、という意味では同じです。偏る方向が逆なだけで。

 

 

じゃぁ、僕は偏っているのか?と言えば、胸を張って「偏っている」と答えます。

 

偏っていない人などいませんし、偏りもまた、個性のひとつだと思っていますから。