だいぶ前に、ゴミ屋敷の話をしましたがその続きです。
僕限定、僕の妄想話です。
僕にはゴミ屋敷メーカーとしての素質がある、という話をしました。
一応言い訳をしておくと、ゴミ屋敷を完成させたことはありません。ただ、素質は確実にあると思いますし、キレイに家を保っているかというと、全然そんなことはありません。
さて、この僕の素質についですが。
ゴミ屋敷のメイキングにおいては、部屋が散らかっているのはわかっているんですよね。汚れていくのは自覚できている。
で、片付けなきゃいけないってのも、わかっている。
でも、じゃぁリアルには何を考えているか、というと、片付けのことではなく、どうやってゴミをよけて部屋の中を移動するか、とか、動線を確保するぐらいにはゴミをよけておかないといけない、とか、そういうことを考えている。
その延長で、空きペットボトルを効率よく積み重ねる方法とか、横になる場所を確保するための平らな床(ゴミ)の作り方とかを考えます。
これって、考え方の性質とか方向性なんだと思うんですよ。順応性とか適応性と言えば、聞こえもいいですよね。今ある環境でどう生きるか、ですから。
仕事でもよく、人からアドバイスや指摘をもらい、そういう考えは浮かばなかった、とか、どうしたらその発想にたどり着くのか、とか、そういう驚きがあったりしますが、メイキング中のぼくには、片付ければいいんだよ!という意見はそれに近い。
今ある環境にどう順応するか、という方向で考えてしまうので、環境を変える、という考え方が出てこない。
だから、今いるこの部屋も、そういうもの、ということになり、なんで散らかったかとか、そういうのは考えなくなります。今ここがスタートなわけですからね。
あと、変な、偏った責任感というのもあるかなぁ、と思っています。
自分が発生させたゴミに、変に責任を持とうとする、というか。
意味がわからないと思います。
具体的に、では、そのゴミがあることの責を負うのは誰か、ということです。
当然ですが、家の中にゴミが存在している限り、そのゴミへの責任は僕にありますね。
しかし、さっさと袋に詰めてゴミに出してしまえば、少なくとも回収されてから先は、そのゴミを管理する責任から解放されるのです。
ちょっと説明しづらいニュアンスなんですが、ゴミにだしてしまえばその重責から解放されるのに、なぜか、ゴミに責任を感じてしまう。ゴミを発生させたことが既に悪である、とでも言えば良いでしょうか。
そして、責任からの逃避、見て見ぬふり、となるわけです。
ゴミが積み重なったときにはもう、視界の中はすべて罪ばかりです。
病んでいるとか、そういう風に考えるのも方法のひとつなんだと思いますが、それ以上に、皆が抱える「心の偏り」なんだと思います。
ゴミ屋敷を作る人も、潔癖症で家がメチャメチャ綺麗な人も、偏っている、という意味では同じです。偏る方向が逆なだけで。
じゃぁ、僕は偏っているのか?と言えば、胸を張って「偏っている」と答えます。
偏っていない人などいませんし、偏りもまた、個性のひとつだと思っていますから。