kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

気遣い。

多分、律儀な人なんだなぁ、と思う。

その律儀さは、性格からくるものもあるんだろうけど、後天的な要素もあるんじゃないか、と思っている。

聞こえてくる限りでは、前半生(?)で苦労をされたようだ。とはいえ、年齢的にはまだ、前半生を終えてはいないぐらいの年齢かも知れないが。ここでいう前半生は、幼少から中年手前にかけて、というぐらいに思っておいてもらえばいい。

また、前半生でその人が負った傷が癒えてはおらず、それにより今の生き方や考え方にたどり着いているように聞こえるが、それが良いことなのかどうかは、僕にはわからない。

僕は、なんの不自由も苦労もなく生きてきた。だからか、今になってそのツケが徐々に大きくのしかかりつつあるが、とにかく、そんな自分から見て、自虐的な話を時折するその人が、それでも芯を持ち生きているんじゃないか、と思うし、その芯は、後天的に持たざるを得なかったのかも知れないし、僕にはないものだと思わざるを得ない。

僕よりはだいぶ年下の人ではあるのだろうけれども、その経験は僕のものより濃く深く、内向きには色々と葛藤や苦しみは今でもあるのだろうけども、外に対しては乱れることなく自分を律しておられるだろうことは、尊敬にも値すると思っている。


そんな人が、自分に気を配ってくれる、というのが、面映ゆいところがある。

僕に何を見たのか、何を感じたのかわからないが、僕個人からすれば”かいかぶり”などの誤解であろう、と思うのだが、とにかく気にかけてくれているらしい。

もちろん、その人と僕は日頃から接していて仲が良い、とかではなく、相当の距離感を持って、ほんの僅かな接点ほどしかないが、そんな僅かな接点の中で感じる気遣いには恐れ入る。

僕は、そういうことは大の苦手で、これもまた、経験からきているものなのかもしれないなぁ、と考えたりもするが、まぁ、この人が根っからのお人よしである可能性も、否定はできない。


今回は、たまたま”この人”のことをこうして書き連ねたが、そういう人、そういう存在、というのは他にもいる。

例えば、自分の行動や考えに、あの人ならどう思うだろうか、とか、そういう立ち位置になる人なんかもいる。接点なんてほとんどないのに、である。


ただ、そのように、思いがけず僕のことを気にかけてくれたりする人たちというのは、おそらくどこか僕と”共通”の部分を持っているんだと勝手に思っていて、じゃぁそれは何なのか、というと、それは”青臭さ”じゃないかな、と思ったりする。



僕のブログを読んでいただいている方はわかると思いますが、僕のブログは、例えばビジネスに役に立つ情報や考え方は一切ありません。むしろ、ビジネスを行うにあたっては邪魔になる考え、よくない要素、のほうが多いのが僕のブログです。リアリストではないんですね。

こんなブログを書くような僕に気を配ってくれる、気を遣ってくれる人ってどんな人たちなんだろう、と考えると、たぶん、共通の青臭さなんだと思うんですよね。

先ほど書き連ねた”この人”も、当然、仕事はされているし、ビジネスマンとしての顔を持っているでしょう。最近、お仕事が忙しいようにも見えます。また、例えで挙げた「あの人ならどう思うだろうか」と考えてしまう人は、僕よりも年上で、おそらくですが仕事でもそれなりの立場までのぼっておられ、僕が仮に同じ職場だったとしたら、僕のことなど見えないところにいるかもしれないなぁ、と感じる人です。

それでも、それらの人が気を遣ってくれたりするのは、どこか、自分の中にある青臭さを、僕にも見ているんじゃないのかな、と。


これは、勝手に僕が考えていることなので、独りよがりかもしれません。

でも、これまた独りよがりな話ですが、趣味や副業などで、アートや文学などに携わっていたりすると、そのような青臭さってあったりしないかなぁ、と、僕自身をベースに考えたりするのです。

僕は、その青臭さと現実的な生活を切り離すことが出来ないので、こうしてうだつの上がらないサラリーマンをしているのであって、もしちゃんと割り切って、そこら辺の感情を使い分けることが出来たら。青臭さを抱いたまま、ビジネスマンとして、リアリストとしても高みに昇れるんじゃないのかなぁ、と。


そんなことを、ふと思いました。