社会とは、どういう意味なのか。
人の集まり。またはその形。または、世間そのものであったり。
個人と対をなす言葉なのかもしれないし、個人の集合が社会、と考えれば、そこに大きな差はないようにも思う。
自分の身体を境目とし、外側は社会、内側は自分、ということかもしれない。
そんな、個人が社会と接点を持つに当たって、そこにあるのは、期待、不安、安心、恐怖。相反する二つの状態、状況がある。
全体的にはややプラス、不安もあるがそれ以上に期待もある、という感じかもしれないし、全く持って恐怖しかなくなることもあるんだろうと思う。
いずれにせよ、とっさの時には隠れられ、身を守ることが出来るように、その境目には扉であったり窓であったりを設置し、いざという時には自分、個人という殻に閉じこもるのだろう。
そんな、ある意味で自分自身を社会という暴風雨から守るための窓が、本人の意思に関係なく、開け放たれてしまっていることがある。社会から、無数の概念や感情、善意、悪意が個人の中へ流れ込んでしまいかねず、自分が意識的に開放しているのならまだしも。無意識なのであれば、それはとても危険である。
だから、心ある人は、そっと伝えてくれる。
社会の窓が、あいているよ、と。
いまや死語だろうか。なぜ、あのチャックのことを、社会の窓、というのか、という、妄想的考察です。