偏りというのは、あまり良くない、とされることが多いです。
でも、偏りがエネルギーを産むことも確かで、成功者の意志の強さなどは、言い方を変えれば偏りであることも多く、時にはその偏りが批判の対象になったりもします。
また、成功者に対して真っ直ぐな尊敬、憧れの気持ちが持てないシチュエーションというのも、そのような偏りに、共感が出来なかったり、その人の稚さを見たり、許容範囲の狭さを見たりするからかもしれません。
ただ、客観的には成功者が正義ですから、その偏りに対する嫌悪というのは、表には出てきません。それは、僻み、嫉みと受け取られてしまうからです。
その偏りがあるから、成功したのか。
成功者がたまたま、偏りを持っていただけなのか。
特に日本には多い傾向なのかもしれませんが、成功者や立場が上の人には、同時に人格者であることを求めがちです。そのような立場の人の偏りを否定しがちだと思います。
もちろん、立場や権力を持つ人にどうしようもない偏りがあったりすると、害があることもしばしばです。
今、ニュースを賑わせている会社など、一部の経営陣の激しい偏りの結果とも言えますし、本人にも止めることができない偏りの暴走というのはこわいですね。まぁ、そもそも偏りが暴走している、という認識すら持てないでしょうから、本人は理性的で冷静なつもりなのでしょうけど。
このような偏りは誰しも持っていると私は思います。
それを表に出すか出さないか、自分にさえも隠し続けるか否か、という違いがありますけども。
私自身は、かなり偏りがある人間だ、という自覚があります。
そして、嫌われたり避けられることを恐れ、出来る限り隠したいとは思っています。
でも、そこに“個性”や“自分らしさ”があり、隠しこそすれ、否定はせず、どこかでそんな自分を愛らしく思うことも、必要なのかもしれません。