kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

卒業式の変化。

先日、我が遺伝子を継ぐ女子、いわゆる娘が卒業式を迎えました。これで、義務教育を終えたことになります。

 

少し前、酔っぱらって僕の家庭事情を少し暴露した気がしますが、僕と娘はひとつ屋根の下で暮らしている関係ではないのですが、とはいえ関係が悪いわけでもなく、僕は僕として、式に参加してまいりました。

 

 

そんな卒業式でひとつ気になったのが、欠席者の多さです。

 

もちろん、事情はわかりません。やむを得ないこともあるのでしょう。卒業式を欠席されたことについて、どうこう言うつもりはありません。

 

ただ、人生において大事なイベントでもある卒業式です。ただの終業式なんかとは全然違うわけです。よほどの事情なんだろう、と思うとともに、よほどの事情の人が、こんなにも多いものだろうか?とも思ったわけです。

 

まぁ、僕が勝手に欠席、と思い込んでいるだけかも知れません。僕が欠席だ、と受け止めた事象としては、卒業証書授与の際、名前が呼ばれるだけで生徒が登壇しないシーンがあったからです。名前を読み上げる先生もあらかじめ承知済で、連呼したり探したりせず、淡々と次の生徒に移っていましたから、アクシデントや不手際で登壇しないのではなく、はじめからその場にいない、つまり欠席なんだろうと。

 

 

ただ、今になって考えてみると、欠席ではなく、何かしらの主義主張による卒業証書授与、または卒業式自体の拒絶なのかしら?とも思います。

 

いや、実際に呼ばれたにもかかわらず登壇しなかった生徒が、あの会場にいたかどうかはわかりませんが、親御さんなどの何かしらの主張で、卒業証書授与の登壇はさせない、みたいな動きがあったりするのかも、とか。

 

 

今、騒がれているのかわかりませんが、以前、参列する先生側でありましたよね。君が代は歌わないとか、だから起立しない、とか。

 

その是非はここでは問いませんが、そういう系統の主義主張が生徒またはその親御さんにあり、卒業証書を授与させないと。または、卒業式に参加させないと。

 

 

なんせ、各クラスに1~5名ぐらいいたんですよ。呼ばれても登壇しない生徒が。僕の時代の卒業式は、学年で1~2人だったような気がします。というか、普段の普通の日でも、1クラスでそんなに欠席者はいなかったと思うんですが。

 

僕の卒業式の時は、病気とか主義主張とかではなく、確か一人は海外に引っ越してしまったため参加できなかったのと、あとは進学した学校がなんか特殊だったかで、もうそっちの学校に参加していて来られないとか、そんな感じの友人がいた気がします。

 

 

もちろん、娘の学年の登壇しなかった生徒たちにも、事情はあるのかも知れませんので「決めつけ」は出来ません。

 

ですが、社会の価値観が変わっているものまた確かです。

 

例えば、「皆勤賞」というものの価値は下がりました。むしろ家族で旅行するから学校を休むのは当たり前、みたいな風潮も一部ではありますね。学校を休んで遊園地に行っている、とか、よく耳にしました。

 

まぁ、これも是非と問うつもりはありませんが、その生徒たちの親は、当然ですが僕とそう世代が離れているわけではないですから、彼らは僕と同じような価値観の中で育ったと思うのですが、それぞれ、心の中で思うことがあった、ということなんでしょうかねぇ。

 

僕としては、卒業式はやはり大切なイベントであり思い出でもあるので、よほどのことがないと欠席は考えられませんが、そこまでウェイトを置いて考えている家庭も減ったのかも知れません。

 

もちろん、生徒自身が行きたくない、と言っているケースもあるでしょう。これはこれで、生徒というより親や学校が向き合うべき課題があると思いますし、選択肢として正しい場合もあるでしょう。

 

 

そんなわけで、娘は僕と同じ中学校に通いましたので、久々の母校に足を踏み入れた感動と、同じく久々に聞く「大地讃頌」「校歌」に否応なく昂るものを感じながら、一方でそんなことを考えておりました。