視線を感じる、という表現がある。
私の理解では、視線というのはなんらかのエネルギーを含み目から「放射」されるものではなく、むしろ、目が向いている方向からの光をキャッチする、つまり「受け止める」ためのものである。
なので、視線で物を動かしたり、焦がしたり、ということは出来ない。
基本的には視線を人が感じる、というのは理屈に合わないと思うのだが、でも、これは超能力とかそういうものではなく、意外と巷によくある話である。
ただし、視線というものではなく、これを気配だとか、意識だとかいうものとして考えると、もう少し理解がしやすくなる。これもけして科学的ではないだろうけども。
視線を向けていて、相手がその視線を感じるというシチュエーションでは、多くの場合、意識して相手を「視ている」のだろう。
つまり、視ようとして視ているのだから、そこには何かしらの動機、思いなどがあり、視線を向けた相手への「執着」があるわけである。
どういう理由かは様々だ。
恨みつらみもあれば、恋慕もあるだろう。
ただ、そこには何らかの相手への「思い」があるので、私の大好きな「念」が絡んでいるわけである。
念ともなると、これは一種のエネルギーであり、なんなら飛ばしたり取り憑かせたりも出来るので、相手にセンサーがあれば、感じ取ることができる。
ふと、なんかこの場所が嫌だとか、人のそばにいたくないとか、そういう心の動きは、この「念」が絡んでいるのだろうと思う。
視線自体にエネルギーはないが、意識して「視る」ことで、そこに念というエネルギーを乗せることができるのだろう。
古代、目で見る、という行為は、相手を呪うことであったと聞く。
受け売りの話で恐縮だが、希望の「望」という字も「みる」ことらしいのだが、この「みる」は、これから攻め込む相手領土を「みる」ことで、相手に呪いをかけ、自身の「野望」を成就させるための行動なのだとか。
また、はるか古代では、軍隊に「呪いをかける専門の巫女部隊」がおり、彼女らの仕事は、軍の先頭に出て、敵軍を「みる」ことで、呪いをかけるのである。
話がそれた。
そんなわけで、視線を感じる、というのは、念が視線を道しるべにして相手に向かっていく、ということなのだろう。
みる、という行為に限らず、
もともと人は、あらゆる挙動について、念を乗せることが出来るのであろう。昔の人はそれを熟知し、うまく念を操っていたのかもしれない。
だから、言霊もあながち嘘ではないのだろうし、耳を澄ますとか、そういう五感で何かを「感じよう」という行為も、自身が受信側であるだけではなく、逆に念を乗せて発信するための技でもあるのかもしれない。
以上、全て、私の一方的な妄想である。