以前に読み知った話だが。
日本人というのは、穢れ(けがれ)を嫌うそうだ。
この”穢れ”というのは、一般的な”汚れ”のことだけではなく、目には見えないものを含む。
例えば箸などはそうで、飲食店などで使用する箸は、当然だが使用後はちゃんと洗浄するわけだが、そこには何となく”他人が使ったもの””不特定多数が使用するもの”というイメージがまとわりつく。
これは科学的根拠のある話ではないので、おそらくアルコール消毒や煮沸などを行っても、この印象は拭えない。
グローバル化した現代では、かつてほど穢れを意識をしなくなっているとは思うが、それでもそういう印象を持つ人はいるのだろうし、逆にもっと信じ込んでいた大昔は、実質的な影響もあっただろう。
また、死穢、などと言うように、この考え方では、物理的に触れていなくともその影響はある。
これは、表現は難しいが、まぁ現代風に言えば放射線のようなものか。もしくは、細菌やウイルスのようなものであろうか。
実は、今日書こうと思ったのはそこのところで、世界中で大騒ぎになった新型コロナについてである。
新型コロナを総括するには早すぎるが、否応なく「なかったこと」にしようとしている今、結局この感染症騒ぎは何だったのか、というのを、最近よく考える。
多くの人の喜び、思い出、健康、命を奪い、世界中をパニックに陥れたウイルスであるが、この新種のウイルスは、私が思うに”穢れ”の媒体のようだな、と思うのである。
なんせ、物を他人と共有することが憚られた。
これは、穢れの持つイメージと、なんら変わりはない。
先ほど例に出した箸で言えば、共有することをためらうどころか、その箸が入れてあるケースですらじかに触れることを気にしてしまうのだから、その威力は絶大であった。
その影響は箸に留まらず、飲食店内の空間すらも共有できなくなり、店が営業できなくなるほどに追い込まれたのだから、新型コロナのもつ”穢れ”は生半可なものではないだろう。
また、穢れに触れた物や人、穢れに侵された人などは、その穢れが拡散することを恐れられ、隔離された。
この穢れという考え方は、掘り下げると深いのだろうし、私のような聞きかじりで説明できるものではないにせよ、確かに新型コロナウイルスを媒体として、日本人の心に眠るその思想を掘り起こしたのではないだろうか。
日本人がなかなかマスクを手離さない、と揶揄されるのは”空気を読む”からであるが、それ以外にも、こういうところにヒントがあるように思う。
そこらじゅう”消毒”をするのは、いわば除霊や結界のようなものである。
そして、穢れ、というのは、念にも通ずると思う。
私は、事あればブログで念についてああだこうだ書いてきたが、念と言うのも、穢れのようにまわりへ影響を及ぼすものであり、考えようによっては穢れそのものであるような気もする。
またまた冒頭で例に出した箸で考えてみよう。
他の人と共有することを嫌がるのは、穢れていると考えるからだとする。
では、何をもって”穢れている”とするのか。
物理的な汚れではなく、かつ、他人と共有することで影響する”穢れ”とは何なのか、と考えると、結局は、人間が持つ感性や意識、または”念”のようなものがそれに値するのではないか、というところに行き着く。
念というのは、誰しもが発するもので、恨み辛みだけではなく、好意など前向きな感情からも発するそうだから、考えようによっては、人というのは、四六時中、何かしらの念を発していてもおかしくはない。
また、そのような物理的でないエネルギーなどを操作することが出来る、いわば”能力者”がいる。
能力者は、人により物品や他人に力を籠めたりすることが出来るが、この力は、場合によって”気”と呼んでみたり、”念”と呼ぶこともあるわけで。
なので、死穢というのも、死者の念であろう。
怨念が祟りを呼ぶ、という類の方程式であろうが、だからこそ残念な亡くなり方をした方は死穢があり、近づいてはいけないし、急いで埋葬しないとならないわけで。
そんなわけで、今日も”そっち方面”全開の私であるが、そんな科学的に割り切れない部分こそが人間らしさとか、生き物らしさなのかも知れないし、このような理屈や感性を完全に紐解くことが出来たら、完全に人間を凌駕するAIが完成するのかもしれない。
話が飛びまくったが、そんな、人間とくに日本人の”割り切れない”部分を見事に媒介したのが、新型コロナだったのではないか、というのが、今日の思うところである。