ひとつの事象に囚われすぎてしまうと、それひとつで膨大なストレスを抱え、壮大に裏切られ、壮絶に見捨てられる、ということになる。
これは主観の話であって、傍から見ている限りでは、そこまでのことには見えなかったりもするのだが、本人の中では、生きるか死ぬかの、まさにサドンデスである。
よく、大自然の中に身を置くと、自分や、抱えている悩みがちっぽけに感じる、なんて言うが、このスタンスって大事だなぁ、と思う。
職場の嫌な人。
客観的に考えれば、職場の人間を選べるわけじゃないし、どこにでも嫌な人はいるわけで、嫌な人が全くいない環境の方が少ない。
なので、職場に嫌な人がいる、というのは、特筆するほどの事象ではなく、おそらく、多くの人に平等に与えられた負の環境だろうと思う。
なので、直接的な関係の多さ、深さによるところもあるのだろうが、予めそのような人はいるものだ、という前提を持って日々を過ごすと、多少は違うんじゃないかと思ったりする。
私自身、処世術に長けているわけではないので参考にしてほしくはないが、結局、嫌な人が嫌な人である直接的な理由は、自分に被害が及ぶかどうか、ということだと思うので、被害を受けないような立ち回りは考えるべきだと思うし、それには前提として、常にどこかに嫌な人はいる、という日頃からの認識がモノを言うと思う。
それがないと、出だしのとっかかりを間違えてしまい、ターゲッティングされてしまう。
そして、そういう人を相手にあれこれ悩むこと自体が時間や労力の無駄だし、嫌な人の一人や二人はいて当たり前、ぐらいでいないと、それだけで一日中、どうでもいいことで頭を悩ませることになる。
それと、一歩下がって見ると、嫌な人も、何か理由があってそんな人に成り下がっているのだろう、という点に思いが至る。それが、ごく個人的なことであり、我々には関係ないことであったとしても、その人はその人なりの理由があるわけで、それは、いま自分がこういう人間であることと、理屈としては、なんら変わりがない。
同時に、自分が誰かにとって嫌な人になってやいないかと、自分を振り返るきっかけにもなる。
なので、嫌な人に遭遇するのは、何かしらの気付きを得るための、大いなる力によるものなのかもしれない。人の振り見て我が振り直せ、なのかもしれない。
これを苦痛だと感じるのなら、その苦痛を試練と言い換えてみると、また少し、印象が変わる。
苦痛、というと、今を見ているイメージだが、試練、というと、先を見た言葉になる。
この苦痛の先にあるものが、本当に大事なものなのだろうし、ここでも大いなる力が影響しているのであれば、それは、意図的に与えられたものであろうし、つまりはその先に何かがあるわけで、ただ耐えるだけのものではない、ということになる。
と、大げさな文章を、ブログのために考えながら、いわゆる配偶者の、文句、罵声を聞かされている今である。