僕は、もともと貪欲なんだと思う。
何かをきっかけに、それで傷ついたとか、自分が嫌になったとか、そういう感じで、ガツガツしないことをモットーにしたのだと思う。だいぶ、幼い頃の話だ。
例えば、スマホでもいいし、車でもいい。ファッションでもなんでもいいが、おおもとの僕なら、いつも、最新のものが欲しいと思うのだろう。
でも、それを叶えるには、お金だったり、時間だったりが必要で、そうそう叶えられるものではない。なんでも自由になるお金持ちや権力者は別として、一般的な庶民であれば、どこか折り合いをつけて生きていくものなのだろうと思う。
多分、僕はその“折り合い”を間違えたのだろうし、そこには心理学的な心の動きがあったのだろうけども、世界は自分の思い通りにならない、という、人間がごく初期にぶつかる社会の壁で、いきなり変な風にひん曲がってしまったんだろうと思う。
とはいえ、最新のもの、欲しいものを手に入れられず、裏返してアンチ化し、ことさらに“不要”だの“無駄”だの言う域からは脱している。どちらかというと、たいした根拠なく情報や流行りに振り回されているっぽい人を、生温かく見守るぐらいには落ち着いている。
親戚で、小学生時代に活発だった人がいた。高校生ぐらいから、ガラッと変わって引きこもるようになり、そのまま今に至っている。たまに、ふと、どうしているかな、と思い出すことがあるのだが、その人も、私と同じように、何かそのような壁にぶつかって、変な風にひしゃげてしまったのかもしれず、いや、むしろ形が整って、今こそが本来のその人かも知れず、その答えは自身で分析するしかなく、まわりがどうこう言えるものではないだろうと思う。
人間のこと、というのは、キレイに割り切れることの方が少ないと思うので、壁にぶつかった時の“ひしゃげかた”はそれぞれ違い、統一された処方箋があるわけでもない。
でも、その歪みが、その人の将来や人生をも左右するとなると、壁のぶつかり方、というのも早いうちに学んでおく必要があるかもしれないし、その歪みの修復の仕方、というのも、知っておくべきなのかもしれない。
僕は、様々な面から、歪みがある。
これも個々の違いのひとつだが、僕は敏感というか繊細なので、一般的に“段差”レベルの突起も、僕には“壁”であったと思う。
ルンバでも乗り越えて掃除が継続できるレベルの段差で、ぶつかり、ひしゃげ、乗り越えられずに方向転換し、というのが、幼少の頃の僕だったのだろう。
もう、人生後半戦であるので、いまさらその歪みを修復したところで、もとがポンコツ化しているので、さしたる価値は出ない。
それよりも、この歪みの原因、理由、歪むとどうなるか、を伝えていく“語り部”になったほうが、世のためではあるだろう。
まぁ、語って興味を引くほどの人生ではないが。
私と同じ、繊細な人なら、共感できるかもしれない。
繊細な人は、普通の、ありきたりの日常の中で、ひしゃげていくからだ。