kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

不得意分野。

何度かここで書いていることではあるのだが。

 

 

自分は、どうも情に薄い。

 

社会常識、とまでは言わずとも、多くの人がわきまえているであろう情を扱う言動が、自分には不得意である。

 

 

だから、いわゆる配偶者は、事あるごとにがっかりしていたり、怒っていたりする。

 

僕は僕なりの理屈があってそうしているので、なかなか噛み合わないまま、もう何年も過ごしている。

 

 

例えば、投資話でもなんでもいいが、とにかく、リスクを伴うチャレンジとか、そういう事があるとする。

 

儲かることを求めて、借金して投資する、とか。

 

で、この投資が失敗し、借金だけが残ったとすると、その人はいつ、どのタイミングで「愚痴」や「言い訳」などの、恨み節をこぼせばよいのだろうか。

 

 

ま、正しくは、愚痴や言い訳など、言う事自体が間違っているとは思うが、少なくとも、ぽしゃった時点で何か言うのは違う、というのが僕の意見。

 

心で思うのは自由。

 

でも、口に出してはいけないし、それを他人に聞こえるように言ってもいけないと。

 

たぶん、聞かされるかもしれない場所で見ている他人も、それにより本人が傷ついているとか、青ざめているとか、そういうのはわかっている。

 

でも、承知で始めたことだから、他人からすれば「話が違う」し、織り込み済みのはずの愚痴を聞かされるのもうんざりだろう。

 

そして、他人としては、その人が決めて始めたことだから、慰めの言葉をかける、というのも変だと思うだろうし、だから、触れないことが優しさなんじゃないか、と、僕がその他人だったら思う。

 

 

まぁ、これは例え話で、もっと情に密接に関わるような、単純な損得では測り得ない話が、世の中にはゴロゴロあるのも確かだ。

 

僕は、そういう情が多分に絡む話でも、おそらくそのように考えてしまうし、失敗した立場側だったとしたら、声に出したいと思わないし、声をかけてほしいとも思わないと思う。

 

 

まぁ、命のやり取りだとか、そういう切羽詰まったところでもそう言えるのか、と言われるとわからない。

 

ただ、瞬間的な、刹那的なシーンはどうしようもないけれど、僕は臆病なので、命のやり取りが発生するかもしれないような事には、予め踏み込むことに躊躇すると思う。命を賭してイチかバチかの大勝ちを狙うよりかは、バカにされながら小さな損だけで済ます方を選ぶタイプだ。

 

 

話がそれた。

 

ともかく自分には「人間関係」を扱う「情」に、偏りとか、欠落とか、異常があると思うし、同じく情が関わる「価値観」もいびつなモノになっているので、今後、僕と親密になる人はまずいないだろうし、いてもその人が傷つくことになる。

 

 

ただし。

 

全く同一ではないにせよ、似たようなセンスを持つ人が世の中にいることも知っている。

 

なので、似たセンスを持ちつつ、それを良しとして自信たっぷりに生きている人を見つけたいし、それを自分の人生の糧にしたいと思うのである。

 

ただ、そのような人は多くなく、ネット上に落ちているそれら「同志」の声は、おおよそ、悲痛であり、思い詰めている。

 

つまり、僕のこの文章も、そんな声のひとつなんだろう。

有機的と見るか、無機的と見るか。