私が生まれた頃の通念というか、その時代の概念というか、そういうものが崩れていき、新たなそれらが構築される。
私世代の“男らしさ”は、現代の“男臭さ”であり、昔ながらのそれと今のそれは、だいぶ中身が違うのではないか。
現代の男らしさというものは、昭和時代のような、汗臭い、ソーシャルディスタンス無視の暑苦しさのようなものではなくなっているでしょう(私なりの偏見も入っているかもしれませんが)。
演歌、という音楽ジャンルもそうで、子供の頃の私は、ある程度の年齢になったら演歌の良さが身に染みるようになるものだ、と思っていました。
だから、今は興味がなくとも、ある時ふと染み入ってくるだろうから、努めて聴き込む必要はない、と。
ですが、結局、まだ演歌には馴染めていません。
自分が大人になりきれていないからなのか、と焦る気持ちもあったのですが、まわりの同世代を見回しても、演歌好きという人はいなかった。
つまり、不朽不変のジャンルがあり、人が成長することで“そこ”に辿り着く、と私は思っていたのですが、そうではなく、単純に、親以上の世代に演歌は支持されていた、というだけの話だったようです。
ですから当然、私世代で演歌が好きな方はいるだろうし、なんなら10代ですら、演歌ファンはいるでしょう。それは、単純に好みの問題であって、けして“演歌を聴くに値する経験や年齢”が必要なものではなく、それらを獲得することで演歌が聴けるようになるものでもない。
世の中はムービーのように流れてゆくものであるのに、自分はそれを写真として切り取って、不変だ不朽だと心配していたわけです。
私と親世代以上との間での変化、移ろいを挙げましたが、これは当然、私世代とその子ども世代でもあり得ることで。
私が当然と思っていることは、子ども世代では非常識ですらあるかもしれない。くわえて、我々がかろうじて知っている親世代の当然から比べると、今のそれは非常識ですらなく、異なる文化の話になっていたりするのだろう。