kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

切り身。

自分自身、陥りがちなところなので気をつけたいと思っていることがある。

 

 

例えば、お皿を洗う。

 

お皿を洗う、という行為は、お皿をキレイにするために行うのであって、最終的な結果は、行為、行動があったかどうかではなく、お皿がキレイになったかどうか、である。

 

が、しばしば人は、お皿を洗った、という行為そのものをもって、お皿がキレイになった、と受け止めてしまうことがある。

 

掃除機も同じで、床の埃などのゴミを除去することが結果であるのに、掃除機を使用した、という行動を持って、掃除が完了した、と受け止めてしまう。

 

 

正しく結果を見つめられなくなってしまうと、結果についての注意や意識も遠のいてしまう。

 

すると、毎日欠かさずお皿を洗っていても、汚れが落ちきっていないお皿が次の日に出てきたり、掃除機を頻繁にかけているのに、部屋の隅に埃のワタが舞っていたりすることになる。

 

 

結果を重視するようになると、逆に手段には因われなくなる。

 

世間一般的なお皿の洗い方じゃなくとも、お皿がキレイになればよいのであり、掃除機を使わなくても、埃などがキレイに除去されればよいのである。

 

 

私は家事が大の苦手なので、言うだけの卑怯者であるが、理屈としてはあると思うし、家事に限らず、様々な場面で起こりうる錯覚とも言える。

 

 

食洗機にかけたからお皿がキレイになるわけじゃなく、お皿をキレイにする手段として食洗機があるので、食洗機にかける=キレイになる、とは言い切れない。

 

同様に、掃除機をかけたからキレイになるのではなく、キレイにする手段として掃除機があるに過ぎない。

 

 

世の中、便利になりすぎて、過程ということをいちいち考えなくなった、というのも、そういう思考回路が発生する原因になっているのかもしれない。

 

掃除機がそもそも何のために、どういう仕組みで作られているかを知ることは、掃除機の長所短所を知ることになり、けして万能ではないことに気付く手段ともなるのではないか。

 

 

以前に、海の魚は切り身の状態で泳いでいると思っている子どもがいる、という、ネタなのか本当なのか、という話を聞いたことがあるが、案外、それと変わらないのかもしれない。

 

なので、日頃から自分が、魚とは切り身である、みたいな勘違いをしていないかどうか、立ち止まって考えるように努めている。

豪勢な刺盛は、魚のお勉強になるのかも。