kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

はてなブログ「今週のお題」

今週のお題「お花見」


お花見というのは、ほとんど経験がありません。

そして、数少ないお花見も、花が見えるようなところではほとんどやった記憶がありません。


ここでいうお花見は、お酒を伴うものです。


お酒を伴わない、純粋なお花見は、たまに「散歩」という形でやっておりました。


私は出不精ですから、大抵の場合、その時々の恋人だったりと楽しむわけですが、仕事が終わってから、夜の散歩という感じです。


桜の下には、お酒を楽しんでいる人もおり、静かな夜桜見学、というわけには行きませんでしたが、散歩が嫌いじゃない自分としては、そのための理由として充分でした。


その他の時期は、恋人が花粉症だったので、夜桜見学どころか、外には一歩も出ませんでしたので、夜桜見学も、毎年ずっと継続、というわけにはいきませんでした。

ちなみに、いわゆる配偶者も花粉症ですので、もう何年も、桜を目的に外に出る、ということはしてないですね。


オジサンと呼ばれて久しくなったあたりから、急に草花の色鮮やかさに気を取られるようになりました。

桜は、電車やバスの窓越しからでもキレイですし、その鮮やかな色を目にした途端、現実逃避というか、センチメンタルというか、そういう気分に駆られます。


大げさな話かもしれませんが、この草花に惹きつけられる心、というのは、おそらく、この世への名残り惜しさなんじゃないかな、と思うようになりました。

子どもの頃のように、人生の終わりを具体的に考えることのない時期は、花の色、海の広さ、山の大きさというのは、ここまで心に響かなかったと思います。

表現が難しいですが、私の年齢になり、花の色に心奪われ、山や海のある景色に飛び込みたくなるこの気持ちは、おそらく、人が故郷を思う気持ちと、少し似ているんじゃないのかな、と。

この世、というところから離れる時期を具体的に想像し、そのためにすべきことを模索するようになり、まるで、引っ越す前にもう少し、この街を楽しんでおけばよかったなぁ、とか、そんな感じじゃないのかなぁ、と。


私には、故郷がないというか、故郷につかず離れず生きていることと、その故郷には色や景色がない。

桜は、隙間にやっと生かされており、山はビルで遮られ、海は広大ではなく、人工的な島や建物が遠景としてある。

風はビル風で、本来の、優しく撫でる風のエネルギーが迷路のような空間で集められ増幅され、傘を壊し、帽子を飛ばす風になっている。


話がそれました。

ただ、今いるこの世界には、色鮮やかな花があり、雄大な山があり、広く深い海がある、ということを、知ってはいても、さほど意識せず、ここまで来ました。


だから、立ち去る時が近づいていることを体感するにあたり、名残惜しくなっている。もっと、楽しんでおけばよかった、と思っている。

そんな気がしたのです。

毎月参拝している神社にて。