kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

三つ子の魂と親心。

子どもの頃、親から言われた説教の数々。

 

身にしみて「そういうことだったんだ」と、納得を感じるのは、大人になってからが多いでしょうね。

 

親が、事細かにああしろこうしろ、それは良くない、あれは良いと口を挟んできてしまうのも、実際に親になってみると、そのやり方を肯定するかどうかは別として、まぁ気持ちはわかるようになります。

 

 

なので、自分の調子が良くない時に、ふと思い出す言葉の数々は、昔、親から言われたことであることも多い。

 

何も知らない子どもに向けた言葉を、いい大人になったオッサンが、今一度、噛みしめるというのも、意外と多いシーンなのかもしれません。

 

 

違う角度から考えると、親の言葉は縛りにもなる。

 

真面目な人ほど、生涯に渡って親の言いつけを守って生きるのではないでしょうか。

 

その言いつけが、絶対的な正義、正解であることは、親も一個の人間である以上、必ずそうとは限らない。

 

 

親も不完全な人間であり、その時々の精一杯で話をしている。これも親という立場になれば理解することかもしれません。

 

自分の不完全な言葉を、子どもという他人が生涯、大事にしてゆくと考えると、うかつなことは言えなくなりますね。

 

 

多くの場合、親は子どもに幸せになってほしいと願うわけで、その幸せを奪ってしまうかもしれない、自分の不用意な言葉というのは、極力、慎まないとならないと感じます。

 

 

…と、理屈ではそのように考えますが、子どもは親の背中を見て育ちます。声に、言葉にしていなくとも、親を見て、吸収していきます。

 

 

自分の子どもに、自分に似た要素を見つけると、親子、を実感するとともに、危うさも感じてしまったりして、とりあえず親という立場も、なかなか落ち着かないものですね。

 

母がよく、そういうところは私に似ちゃったよね〜、などと言いますが、それ、孫まで行ってますよお母様。

 

言葉や姿勢がもたらしたのか、遺伝子が為せる業なのか。

 

 

我が娘には、同じ苦労をしてほしくない。

 

これもまた親心であり、その親心が、余計な言葉を生む。

 

 

娘よ、お勉強はしておいて損はないぞ。