kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

つぶやき(ネクラ)。

自分の本質、というのがあります。

例えば私は、人嫌い、というか、人間関係やコミュニケーションが不得意です。

一見、そういう方面が得意そうに見えるらしく、過去の勤務先では営業職に誘われたりリーダーにされたりなどもしました。
確かに、対人恐怖症、というわけではありませんので、人と喋る、ということは出来ますし、小賢しい頭をしていますので、喋るのがうまい、と思われることもあるようです。


ですが、私の本質は、そういうのが苦手です。気を遣うので疲れます。やりたくないのです。黙々としていることが、自分の本質にはあっている。
加齢により、そんな本質が隠し切れなくなってきたせいか、最近はずいぶんと偏屈になってきた自覚があります。


でも、それが人なんだろうな、と、思う自分もおります。

自分を変える努力をして、どこまで変えられるか、という問題は、答えがありません。

私の若いころの主義としては、なりたい自分があるのなら、まず真似でよいからやってみる。それが本質ではない、飾った自分だとしても、ずっと続けていれば、いつかそれが本当になる、というものでした。

ですから、友達100人できるかな、とか、思い立ったら即実行、今の時代は独立フリーランスだ、みたいな、自分の本質とは違う自分を、やってみていた自分もおりました。

でも、無理でしたね。心が疲れてしまって。

最近は、変われなかったけど、まぁいいかな、という、諦めなのか悟りなのか、という境地に至っています。
カッコいい大人を夢見ていたのも、遠い昔です。

自分という人間を自分たらしめているのはこの本質の部分で、だから、無理に変えてその本質を失ってしまったら、自分ではなくなるのでは、という、若い頃の自分とは相反する思いも最近はあります。それについては、過去に知人などを見て感じたこともあり、否応なく変化していくなかで、いかに本質を保つか、というところも、かえって大事なのかもしれない、という感じです。

ちなみに、本質というのは、あまりよい響きの言葉は当てはまらない気がしています。
自分本位とか、頑固とか、意志薄弱とか、カオナシとか、でしゃばりとか、おせっかいとか…。


さて。

だから人は面白い、というか、歴史上の人物においても、もてあます才能を無駄にしてしまった人は多くいるのだろうな、と。

例えば、シミュレーションゲームである「信長の野望」というゲームシリーズをご存じでしょうか。
内政を行い国を富ませ、戦争や外交をして支配地域をひろげ、最終的には天下統一を目指すゲームなのですが、そんなシリーズ作品の中で、登場武将それぞれに武力とか知力とか政治力などのほかに「野望」というパラメータがあったことがありました。

これは、その武将がどういう野望を抱いているか、という意味ではありますが、どちらかというと性格を表しているとも言え、内容は「天下統一」とか「割拠」とか、自分がどのような野望または希望を抱いているか、というものです。


その中に「隠遁」というのがありました。

表舞台で活躍がしたいわけじゃない。できれば気兼ねなく一人で田舎暮らしでもしたい、という感じでしょうか。晴耕雨読かも知れません。

せっかく武力や知力などが卓越していても、隠遁、というパラメータを持っていると、すぐに野に下ってしまったり、君主となっても国を維持しようとする意志がないなど、才能の無駄遣いが起きやすくなる。


でも、それも、その人なのでしょう。

だから、仮にどれだけ違う歴史が訪れていたとしても、その武将は、今、実際に歴史に残っている以上の活躍は出来ないのだと思いますし、そこも含めて、その武将の能力なのでしょう。


なので、私も、何かに卓越したものを仮に持っていたとしても、私の生来の性格からして、それをうまく活かすことができたのか、というと、多分、ないだろうな、と。なんだかんだで才能を無駄遣いし、今と変わらない生活のような気がします。

一日こうしていられる。