6月から数えて、約4ヶ月。
2月から6月までは、他営業所の応援で別場所に出勤していたことと、勤務内容から会社の車を持ち帰り、顧客先へ直行だったので、この4ヶ月は、久しぶりに安定したバス・電車通勤である。
ただ、もともとは応援していた業務が本業だったので電車通勤には縁が薄く、幼少の頃から親父からの刷り込みもあり、電車通勤はいつまでたっても苦手である。
さて。
昨日から、公共交通の話が続いてしまうのだが、そんな私なもんで、あまり電車やバスでの作法を知らない。
迷惑はさほどかけていないつもりだが、特に電車などは、車内のどの位置から空間を埋めていくのが正しいのか、とか、ドア付近の配置はこういう図面が皆の頭に入っていて、それに基づいて立ち位置を決めているとか、そういうのが疎いのである。
しかし、4ヶ月も継続すると、なんとなくわかってくる部分もあるのか、私以上に疎い人が乗ってくると、おいおい、と思うぐらいにはなってきた。
台風後の増水で、やたら荒ぶった川の急流のど真ん中に屹立する岩であるかのように、駅についてもドア際で踏ん張りながら動かない人などを見ると、マナーを超えて尊敬すら感じる。
私は気弱なので、絶対に出来ない技である。
その人なりの、理想のポジションを失わないための策なんだろうし、代替案もないのであれば、そうするしかないのだろう。
また、ダッシュして空席を奪い合う光景は、ある程度、混雑する路線ならどこでも見られる景色であろうが、私個人は、やらない行動だ。
私は参戦しないというだけなので、まぁ好きにやってくれればよいのだが、けっこうな割合で、その位置から狙うのか!と思うぐらい遠くから、人の波をかきわけている人なんかを見ると、さすがに尊敬は感じないが、その思いの強さは認めざるを得ない。
駆け込み乗車であれば、失敗しても、電車が出てしまうまでの数秒を耐えればいいし、待つ場所を変えてしまえば、ホームに取り残されても居心地の悪さは解消されるが、座席の取り合いとなると、失敗した後の逃げ場がない。
まぁ、そのような感情に囚われていては、座席に座ることなど叶わないのであろう。
そして。
別の角度からの視点として、コロナ禍って、まだ終わってないよなぁ、とも思うのである。
ソーシャルディスタンス、だったか。
少なくとも、私の乗る公共交通機関は、肩ぶつけあってギュウギュウ乗っている。
実際、このような通勤が原因で感染する人がどれほどいるのか知らないが、まぁ、人との距離、というより、コロナとの距離感をマスターした、という感じだろうか。
一応、今でも感染防止のため、なるべく手すりやつり革には掴まらないようにしているのは以前にも述べたが、そんなスタンスでは、空いた座席も、理想の立ち位置も掴み取れない。
電車通勤とは、シビアなものである。
そんなことを考えながら、気がつけば電車の奥に押し込まれ、降りたい駅で降りれなくなっている。