随分前のブログで、私は線路が好き、という話をしたことがある。
特に分岐器が大好きで、幼稚園だか小学校低学年時点で、分岐器を絵に書いて表現することが出来ていた記憶があるし「こういう風に分岐する場合は、どのように組み立てるか」などを考えていたりする子どもだった。
道路も好きで、交差点の真ん中で、地面に埋まってチカチカ光っているライト(?)が好きだった話も、いつだったか書いた。
そして、道も好きだ。
いわゆるワインディングロードなどが好きで、特に草原の中を一本道がくねくね走っていたりするようなのが好きだ。
山の中の峠道などもワインディングロードだが、あれはどちらかというと、そこしか道が作れなかったとかで、木々を縫うというより、崖っぷちを這っていたり切り通しているような印象だが、私が好むのは、およそ平面で、パッと見、一直線でもよさそうなワインディングロードだ。それでいて、道路脇は草花が生えて天然の壁、フェンスになっていたりすると、なおよい。
大昔は獣が歩いて「獣道」になり、その後は人が歩き始めて道となり、みたいなことを感じながら通行するのが好きである。
情緒的な話から離れるが、そういった好みを総じると、私は、けして道を開拓するタイプではなく、既にあるものを利用するタイプなのだろう。
つまり、
敷かれたレールの上を歩くタイプだ。
自分が保守的だと思う理由にもそれはあり、例えば伝統を壊したり途絶えさせることや、既にあるものを変えたり無くしたりするのには抵抗を覚えてしまう。
その思考が、自身の飛躍とか、そういったものの妨げになっていたとしても、たぶん、ためらうだろう。
つまり、0から1を生み出すタイプではなく、まして新しい世界、文化を構築するタイプではなく、昔からあるもの、変わらずにあるものを当たり前に享受して生きていくタイプだ。
さらに言えば、指示待ち型でもあるだろう。
目に見えるもの、実際に触れられるものが全てで、たとえそこに不便や困難があっても、そういうものなんだという解釈のもと、学ばずにまた元に戻し、後日、同じ困難に再度出くわすタイプだ。
そういうタイプは、道を見失うと脆い。
とりあえずは歩き出してみよう、と決心を固めるのに、たぶん、人より長い時間がかかる。
個人的には、そういう時の判断は遅くないタイプだと思っているが、他者と比較したことはないので、実際のところはわからない。
ただ。
それではいけない、という頭の理解だけは出来ている。
いや、いけないばっかりではないが、古き良き、を守っているばっかりでは、既にある道を歩いているばっかりでは、それは広義の依存であり、自立とは言えないだろう。
自立を獲得したうえで、古き良きを大切にするのなら、それは本当の愛着であり、思いであると思う。
とはいえ。
じゃぁ今、この道から外れ、そこの草むらをかき分けてゆけ、と言われても、多分無理だ。
歩いている道が行き止まりとか、草むらにうっすら溶け込み消えてなくなっているとか、そういうどうしようもないシチュエーションにでも出くわさない限り、草むらをかき分けることはしないだろうと思う。
先人たちが踏み固めてきた道が、未来という草原に向かって伸びているが、そのまま、草花に覆われ、どこかで道は、道ではなくなっている。そんな印象を受ける昨今だ。
今、輝いている人の多くは、道なき道を踏破してきた人であり、また、飽くことなく、道なき場所に飛び込んでいくだろう。
私はといえば、相変わらず、もはやうっすらと消えかけた道を、考えもなく辿っている。