kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

人対人。

21世紀になり20年ほどが経過したわけですが、昭和に生まれたボクらが夢想したほどには、21世紀というのは超絶未来ではなく、前世紀の匂いを色濃く残しています。

例えば、自動車は、まだタイヤがついています。
未来的要素として、電気で走る自動車というのはその括りに入るのかも知れませんが、これも今、普及している最中です。
また、自動運転車両の開発が喧しいですが、こちらもまだ、完全自動化には至っていません。


今現在、車というのは、運転手がおり、運転装置で操作をし、車を動かしています。
「車は急に止まれない」というのは、もちろん物理学的な意味も含んでの表現ですが、正確には「運転手は急に車を止まらせることが出来ない」というのが正しいわけです。

「車」という言葉には、それを操縦する運転手という人間の存在を消してしまう力がある。
交通事故で「車が悪い」「車が止まらなかった」など、運転手がいるにも関わらず、表現としては「車」と総称されます。
正しくは「運転手の操作が悪い」とか「運転手は車を止めなかった」とか、そういう表現になるはずではないでしょうか。


完全自動運転の車が登場するまでは、自動車はあくまで「人」が操作して動く「物・道具」です。
なので、よく交通事故の際、車対人とか、車対車という表現をしますが、つきつめれば全て、人対人なんですよね。

そこに運転手の性格や感情が含まれるからこそ、世の中には「煽り運転」というものも存在します。
また、赤信号に変わりつつある信号を見て「行っちゃえ!」と思ってしまう確率は、歩行者も運転手も同じです。
待つ人もいれば、行ってしまう人もいる。そこに人と車の差はありません。


運転手の側は、自分の自意識を持って運転していますので、この車が「人に操作されている」ということは重々承知ですが、歩行者や自転車の側というのは、しばしば、車は車で、人ではない、という錯覚に陥ってはいないか、という疑問があります。


もちろん、運転手というのはライセンスをもって運転をしていますから、感情のままに走るわけにはいきませんし、歩行者が歩行する以上に交通ルールを守り、事故を起こさない自覚と努力が必要ではあります。

ですが「歩行者が優先」というひとつのルールをもって、まるで運転手を煽るかのような歩き方をする歩行者というのもまた、いかがなものか、と思ってしまいます。


例えば信号無視。

運転手が信号無視で交差点を通過したら、当然ですが危ないです。歩行を妨げられた人は怒るでしょう。
それで交通事故にでもなれば、それこそ「ぐうの音」も出ないほど、運転手を責めるでしょう。

ですが、歩行者の側というのは、運転手に比べれば、軽い気持ちで信号無視が出来てしまうようです。
運転手は、信号無視の歩行者に対し、どうもできないからです。接触でもしたら、運転手の過失になってしまうからです。
どういうシチュエーションであろうと、車に過失がいく。だから赤信号で渡っても、車は止まる。そういう計算式のもと、信号無視の歩行者が量産されるのだと思うのですが。

その「車」を運転するのは「運転手」であり「人」なわけです。
当然ですが、赤信号を堂々と無視してのんびり歩いている歩行者に対し、いい気持ちがしているはずはないのです。
立場が逆なら、烈火のごとく怒るはずなのです。


まぁ、だから歩行者も交通ルールを守りましょうとか、そういう話で片付けばいいんですけども。

自動車を運転するのも「人」である、という認識を持って行動してくれれば、運転手の気持ちもまだ落ち着いていられるのですが。
形だけでもいいから小走りをするとか、頭を下げながら通るとか、そういうのひとつで違うんですが、まるで自分の方が身分が上、みたいな感じで、急がず、悪びれず歩く人も、けっこうおられますね。

また、そのような歩行者というのは、本人は深く考えていないと思うのですが、渋滞の原因となっています。
歩行者用信号が赤になってから、自動車用の信号が赤になるまでのタイムラグを、その歩行者が潰してしまうからです。
本来なら5台通過できるはずのところを、勘違い歩行者がのんびり歩いているおかげで3台しか通過できなかった場合、残った2台は次に回されます。これが繰り返されると、信号を待つ自動車は、信号が変わるたびに増えていく、ということになります。


とにかく「車」と表現すると、単なる機械であり、だからこそ譲るのは車の側であり、人様は優先される、みたいな勘違いがあるような気がしてならない今日この頃です。車を操るのは人。急いでいるのも同じ。魔が差すのも同じ。だから、相手の感情を逆撫でするような行動は慎みたい、と、そういうお話でした。
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