押しボタン式の信号。
ちょうど信号が切り替わるかな、という時に救急車がやってくる。
緊急走行時であれば、たとえ歩行者であっても、救急車を優先して走行して頂きますね。
ですが、救急車も事故を起こすわけにはいきません。交差点通過時には充分に減速しますし、場合によっては停止します。
ここからです。
安全確保のため停車した救急車の前を、横断し始める人達がいらっしゃる。
違う、そうじゃない。
あなた方に譲ったんじゃないんです。
あなた方が今にも飛び出しそうにしているから、安全のために停まったんです。
あぁほら、それにつられて続々と横断を始める人の群れが。この中には、緊急車両がいることも知らず、スマホを見つめながらまわりにつられて歩いている人もいます。
こういうのって、免許を持っているとかいないとか、講習を受けたとか受けてないとか、そういう話でもないと思うんですが、どうなんでしょう。
気付かずに渡ってしまった、という方がまだわかります。でも、その場合って、様子を窺うことはせず、勢いよく渡っていきます。
・渡ろうかどうかためらっている。
・救急車が停まったのを見てから歩き出す
ここらへんは、ほぼ確実に「救急車が停まったのを確認したから」歩き出しています。
緊急車両が赤信号に突っ込んでおきながら、いちいち歩行者に道を譲っているのであれば、はじめから信号を待てば良い話です。
なぜ緊急車両が、危険を犯してでも赤信号の交差点に進入するのか、を、少しは考えたいものです。
明確に救急車側が譲る場合は、ゼスチャーで合図したり、拡声器で案内をします。
緊急車両は、一般の交通ルールに優先して走ることが出来るから緊急車両なのであって、それは全員が共有する常識であってほしいし、そのために家庭、家族でも共通認識として改めて確認しておきたいことですね。
課題のひとつは、コミュニケーション不足、またはコミュニケーション方法の変化が挙げられるのではないかとも考えます。
緊急車両がやってきて、停まったから譲ってくれたんだ、と解釈するのは、何か新しいというか、常識に囚われないというか、そんな印象を受けます。
はなっから譲る気のない人達の方が、まだ心理としては追跡可能な気がしてしまいます。
そもそも、緊急車両がなぜ緊急走行をしているのか、極端に言えばその緊急車両が何のためにいるのか、という所まで、新しい価値観で見ているのではないか。
その車の中で繰り広げられている(かもしれない)命のやり取りは、もはや心を動かす理由になり得ないのかもしれない。
また、もうひとつ推測するのであれば、「貧すれば鈍する」とか「衣食足りて礼節を知る」という部分でしょうか。
日本という国の「貧」が、国民を「鈍」している。
衣食が足りていないから、礼節を知らない。
不況と言われるようになって、随分と経ちます。ピリピリとした空気の中で長らく過ごしてきて、「賢」も「礼」も、もしかしたら「心」も、失われつつあるのかもしれません。
思った以上に濃い話になってしまいました。
また脱線がとまらなくなりそうなのでこの辺で。
ちょっと、カチンときてしまった、というお話。