今週のお題「忘れたいこと」
正直、個人的にはたくさんありますけども。
近々においては、これは忘れてはいけないことですが、コロナ禍の閉塞感というのは、やはり思い出したくもない程の、どんよりとした、じわじわした苦痛でしたね。
もちろん、まだ過ぎ去ったことではないですし、今は新株の話で持ちきりです。気を緩めたら、すぐに元の木阿弥、という状況です。
私自身は、つくづく、平和な国の、平和な時代の、平和な場所に生まれ育ったなぁ、と思います。
同じ日本国内でも、未曾有の大災害などで長い時間、苦しんでいる方がいる中で、奇跡的にも私は、それらの直接的な被害にあうことなく、今まで来ています。
また、これも「たまたま」ですが、コロナ禍による影響のない業種に勤めているので、仕事面で大きな岐路に立たされる、ということもなく来ています。
私は自他共に認める面倒くさがりで、外出もあまりしない人間ですので、正直、緊急事態宣言で、そこまで影響が自分にあるとは思っていませんでした。
平日はだいたい家と会社の往復だけですし、休みの日も、ほっておけばいつまでもダラダラしている人間なので、特に変化なく、恙無く暮らしていけると思っておりました。
国内屈指の平和ボケだと思います。
ただ、仕事の仕方ひとつから変化を求められるようになり、あらゆる局面で「出来たことが出来ない」という閉塞感が、全てを包んでいたように感じます。
また、出かけるのが好きな人は、やはりフラストレーションがたまっていましたし、食べることが好きな人は、お店がひとつ、閉じてしまう度に嘆いていました。
私個人、というより、まわりがとても閉塞感。それに伴い、ぴりぴりした空気感。
終わりが見えず、もしかしてもうずっと、この状況下で暮らしてゆかなければいけないのか、という、絶望にも似た落胆。
たぶん、あの空気感の中を耐えてきた方々は、今の新株にも、真摯に向き合い、自発的に対策していくことだろうと思います。
あの空気感を知っていれば、新株を撃退するまでの努力は、むしろ進んで出来るものと思います。
なので、忘れたいことではありますが、忘れてしまってはいけないことなんだな、と改めて思います。
今後、コロナ禍が完全に終息したとしても、ずっと継続されていく新しい「やり方」が、少なからずあると思います。
ということは、今、コロナ禍に居合わせている私達が、失ってしまう文化、やり方の、最後の生き証人ということになりますね。
こうして歴史は紡がれていく、と言えば聞こえはよいですが…二度と戻らない平和ボケした暮らしは、私が晩年にさしかかる頃には、博物館で学ぶようなものになるかもしれません。
ん、なんか話が「忘れてはいけないこと」になってしまいました。