ずいぶん前から、国の借金がどうとか、国民一人あたりの借金がいくらとか、そんな話が出ていた。今でも、そういう話題がないわけではないと思う。
しかし、コロナ禍によって、そんな声が聞こえなくなった。
発していないわけじゃないのだろうが、特にこの2年、そんなことを言える状況じゃなかった。
人類がコロナウイルスに打ち勝ち、また以前と同じ社会に戻るのであれば、その時はまた聞こえてくるのだろう。
その賛否を言いたいわけではない。私はそういう方面には疎い。
しかし、なんと言うか、見事なぐらいに、すがすがしいほどに、
「四の五の言うな」
を体現したような気がする。
防疫を取れば経済が死に、経済が死ねば国民が死ぬ。経済を取れば感染が拡大し、やっぱり国民が死ぬ。
どうにもこうにも、裏技を使わない限りはどの選択をしても国民に悪影響が及ぶという状況の中で、さすがに「借金が」「予算が」という声は、国民を守ろうという声にかき消された。
そのやり方などには、これもまた賛否があるとは思うが、大枠としての方向性としては、こうならざるを得なかったのかもしれない。
そういう意味で、日本というのは、ちゃんと意見を述べられる環境であれば、切羽詰まれば現実的な判断をし、それなりに終息に向かって動くことが出来るのかもしれない。
前回の、国を賭けた大決断の際にその自由がなかったことが、歴史に記される結果を招いたのだろう。そこには、日本が鎖国のなかで培った美徳精神も作用していたかもしれない。
明確に書かないところが私らしい。前回とは、今、私のブログを読むほぼ全ての人が生まれる前のことだ。
もともと日本人は、柔軟というか、実利的というか、戦乱の時代であれば、裏切りだの下克上だのと、今で言う「武士道」「サムライ」などとは程遠い戦略で生き残りを賭けてきたと考えれば、元々の素質はリアリストで、聞こえのよい理想よりも、今日を生き抜く実務に重きを置くのではないだろうか。
なので、その他のことでも、最近は色々な分野で声高な意見があるが、今回のコロナ禍のように、生きるか死ぬかの現実に直面したら、意外と見る方向が定まるのではないか、と思ってみたりする。
逆に言えば、反論をもって仕事をした気になれる今というのは、コロナ禍は置いておいて、その分野に置いてはまだまだ平和なのだ、と言える。
今の日本は、衰退していくしかない「滅びの美学」に酔いしれているのかもしれない。
いま種を蒔いて100年、200年後に刈り取ることを考えず、今をいかに美しく滅びていくか、を考えているのかもしれない。
先進国の、経済大国のプライドもいいが、酔いしれた後の残骸を押し付けられる、今まさに生を受けている同じ日本人のために、なんとか現実を見て、現実的な対策を考えたいものである。
お前もその一人だろう、という意見は、受け止めはするが、それだけなので悪しからず。