私が現在使用している腕時計は、何年か前、記念日にペアで買ったものだ。
当然、高価なものではないが、もともと腕時計文化に馴染まない私が、珍しく継続して使用しているという意味で、今までにない腕時計ということは出来る。
特に電波時計でもないので、時間の調整は竜頭を回して行うのだが、滅多に狂うことがない。
ただし、全く狂わないわけではない。
そして、狂い方に特徴がある。
じわじわと進む、または遅れる、ということがなく、狂う時は、何時間、という単位で一気に遅れる。分単位で調整したことは、ほぼない。
自宅では外していることが大半なので、その間に狂うことがあった。
仕事中などは、そんなに長い間、時計を見なかっただろうか?というぐらい遅れる時があった。
電池式だが、その後も、電池を取り替えることもないまま、数年単位で狂うことなく、しっかり働いてくれている。
はるか古代に人は時間を知った。時計というのは日時計や天文時計などから始まり、自分達がその管理下におかれることで、人は時間という資源をできる限り有効に使ってきた。
なので、勃興しては滅んでいった、または衰退していった様々な文明や、その当時の科学を存分に吸収しているわけで、つまり、そこには現代人が知らない「仕組み」や「からくり」があってもおかしくはない。
思えばこの私の時計も、ある時期に頻繁に狂うことがあり、その時は会社の現場の応援で、毎日東京都内のある地域を車でまわっている時期だった。
その業務から離れてからは、この週末に実家で狂うまで、2年以上、狂わなかったどころか、微調整も要らなかった。
そうなると、これは現代における「時計が狂う」という観点が、少しずれているように感じるのだ。
あの土地に、私の時計を狂わせる何らかのエネルギーがあったようにさえ感じる。
もっと言えば、私、という存在も加味したうえで、あの場所で、時計が狂った。いや、我々の知らない機能が発動した。
例えば、オカルト的な話になってしまうが、その土地が私を許容しなかったとか、土地に根付く何かが私を拒絶していとか、そんな感じだ。
正直、あまりやりたくはない仕事であったことや、異動したてで居場所もなく、異動先で新たな仕事もなかったことで、私の心持ちはけして良くはなかった。そんな私の心を、土地が受け入れなかったのか、とも思う。戒めたのかもしれない。
その土地自体は、初めての場所ということもなく、頻繁に訪れるわけではないが、場合により、公私ともに訪れることはある所だ。
なので、生来、その土地から嫌われているとは考えにくい。
なので、私の状況も含めて、その仕掛け、動力などは変わろうとも、古代から現代人が受け継ぐ「時を示す装置」が、実は何かセンサーのような働きをして、示す時間が狂う、ということになったのではないか。
つまり、時計とはもともと、時を刻む以外の、何かそういう役割を担う時代があったのではないか。
だからといって、これは全て推測ないしは妄想で、答えも何もない。
ただ、例えば風水とか、何らかの古代における力学とか、そういう面から見ると、我々が何気なく使用している道具は、実は我々の知らない何か別の役割があり、何かの拍子に条件が揃ってしまうと、このように秘められた動作が確認できたりするのではないか。
この数年は、自分自身も含めて、たまに何かの誤作動が起きる。
例えば「物を失くす」というのも、現代では想定出来ない力学が働いているのかもしれないのであり、それがある日ひょっこり見つかるのもまた、何かの力が働いているのかもしれない。
そして、かつてはそれを読み解く技術を持つ文明や集団が、いたのかもしれない。
妄想が過ぎたようだ。
存分にオカルトに走ったところで、もう一度、時計が狂ってないかを確認し、今夜は寝ようと思う。