私の家系は、祖父、父親と、代を重ねるごとに短命になっています。
父親の享年をベースに考えると、私の「人生の折り返し地点」というのは、はるか過去になります。
父は特に、生まれながらの病持ちで、死期もある程度悟っているような人でしたので、その人生観というのは気になりましたが、本人もそのような語りをする人ではなく、結局、聞かず仕舞いでした。
日頃からそんな悟った感じではあったのですが、いよいよ最期の時が近づいた頃、友人が見舞いにくると、その度に涙ぐんでいた父の姿を思い出します。
むしろ、そんなところに父の人間臭さを見る感じがして、死ぬことと別れることは、違うフィールドのことなんだなぁ、と思った記憶があります。
こうして、時折、父親の享年をベースに、自身があとどのくらい生きられるのか、を、考える時があります。
法則に従えば、私はさらに短命となるので、場合によっては、あと数年ということもあり得ます。
私は、だから毎日を悔いのないように…と考えるような、殊勝な人間ではありませんので、仮に死期がわかったとしても、今のまま、ダラダラとその時を怠惰に迎えるのだと思います。
ただ、自分が何を成してきたのか、とか、存在した意味はあったのか、とか、そういうことを考えるいい機会にはなっています。
率直に言えば、何も成してはおりません。
世を、人を救うようなことはしてきませんでしたし、流されるだけで生きてますし、これといった何かがないまま、今に至ります。せめて家族に財産を、と言いたいところですが、散財こそすれ、蓄財などもできておりません。
母はまだ健やかですが、いい歳こいて心配ばかりかけていて、親孝行というものがひとつでも出来ているかというと、全く出来てはおりません。
そんな自分が、存在した意味と、消えていく意味。
よく、三代目で家が潰れるなんて聞きますが、我が家も、祖父が地方から出てきて居を構え、そこから三代目が私です。社会の通念自体が変わってきてはおりますが、果たして、私の後はどうなることでしょうか。
ともかく、私も体のあちこちに不具合が生じてくる年齢になりました。
別段、父親と同年や、もっと早くに寿命がくる予兆は今のところございませんが、若い頃はおろそかにしがちであった、健康診断なども、少しは真面目に受けようと思うようになりました。
ほんと、親の心子知らず、です。
私が親を親として認識した時、親は20~30代前半。自分が同じ年代を生きるようになると、親の苦労や葛藤が嫌でもよくわかります。子供心にはたいしたことのなかった環境の変化も、親にとっては一大決心だったんだなぁ、とか、親も、内心ではこんな子供じみたことを考えたりしていたのかなぁ、とか。
世間の平均寿命からはだいぶ早く亡くなった父ですが、それでもいまだに、父から教わることはあります。
ただ、それには父親と同じ「荷物」を背負う必要があって、つまりそれが「教科書」のようなものです。
同じ教科書を開きながら、父の話を聞く。新たな教科書を手にすると、父が生前にはおくびにも出さなかった苦悩や苦労が掲載されていて、それをもとに父の言動を照らし合わせることで、なにかしら、答えの片鱗のようなものが見えてくる。
長寿は喜ばしいことですが、何かを次世代に伝えていくというのは、その命の長短ではないのだなぁと感じます。
父の命日は先月でした。
雨続きだったのに、その日だけはカラッと晴れて、今日のような秋の青空だったのが印象に強く残っています。
だから、こんなことを書く気になったんだと思います。