kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

禁煙話。

そういえば、8月のお盆で、私の禁煙が2ヶ月を突破する。

 

以下はあくまで私の個人的な体験、意見であり、偏りがあるであろうことはご了承頂きたい。

 

 

さて。

 

私が世間の禁煙にまつわる話を聞く限り、この世に“元喫煙者”というのは存在し得ない。

 

一度喫煙習慣を持った人間は、生涯に渡り、休煙者にはなり得るが、卒煙者にはなり得ない。

 

なので、私の禁煙活動も、ゴールを迎えることはなく、生涯にわたり“休煙者”であることを意識し、強い覚悟を継続していかねばならないと思う。

 

 

と、いうのは私の個人的な意見、考えではあるが、実は、あえてそのように自分を戒めねばならない、と構えてしまうほど、吸わない、という行動は、自分にとって容易だった。

 

世間の話を聞く限り、禁断症状というのか、離脱症状は大変つらく、様々な方法で自分の欲求をごまかしながら毒が抜けきるのを待つ、というものなのだ、と思っていた。

 

私もだから、悶えるほどに辛く、煙草に伸びそうな手を必死に抑える日々になる、と思っていた。

 

なのに、

 

あれ、こんなもんなの?

 

と、思ってしまいそうなほど、この2ヶ月はあっさり禁煙が続いている。

 

これがおそらく、罠でもあるのだろう。

 

むしろ離脱に大きな苦しみがないからこそ、容易に戻ってしまうきっかけにもなるのだと感じる。

 

これならいつでもやめられる。そう思ってまた喫煙者に戻ってしまう。そんな心理的トラップがあからさまにわかる。地獄への道は善意で舗装されているのである。ちょっと違うか。

 

 

実は、この禁煙という行動は、継続してシリーズ化出来る、よいブログのネタだと思っていた。

 

しかし、この調子なので、日々の奮闘日記などなく、忘れた頃にポロッと、禁煙ネタを書くぐらいになりそうである。

 

とりあえず、今日は今日で禁煙ネタであるわけだから、私が知り得た、禁煙を継続する上での敵、を書いておこうと思う。

 

 

それは、習慣、である。

 

喫煙者は、行動と行動の節目に喫煙を挟んだり、何かを達成、完了した後の“余韻”に浸る時に、煙草を咥えたりする。創作をする人は、創作活動中、ずっとチェーンスモークだったりする。

 

私も、仕事の節目で一服をしていたし、食後や寝起きの一服は欠かせなかったし、作曲活動やスタジオで練習中はずっと煙草を咥えていた。

 

何か事があるごとに、傍らに脇役として、しかし欠かすことの出来ない確かな存在感を持ち、実は主役よりも重要なキャラとして存在しているのが煙草なのだ。

 

達成感や満足感を増幅させるために煙草を使用していたことになるわけだが、いつしかこの主従関係は逆転し、煙草の煙を肺に吸い込むことで満足感を得る体になってしまっているのだ。パブロフの犬である。

 

 

というわけで、禁煙をするにあたり、ニコチンなどの中毒よりも恐ろしいものは、実はその“習慣”であると思う。

 

またほ、得られるはずの満足感が得られないことによる喪失感であり、煙草で塞がっているはずの手が空いていることによる虚無感である。

 

体験した限りでは、この喪失感、虚無感は、中毒の離脱症状と受け止めてしまっても仕方がないほど、自然かつ強烈である。

 

私の解釈では、禁煙してイライラするのは、まさにパブロフの犬となった我々の体が、いつでも得られるはずだった満足感を得られないことに由来する。むしろニコチンの毒性はそこまでではないのではないか、と、そう思っている。

 

 

さて。

 

これから禁煙しよう、という人の、参考になるのだろうか。

 

 

※繰り返しになりますが、本ブログの禁煙にまつわる事柄は、あくまで個人の体験、感想です。

電子タバコは、人を生かさず殺さずの装置(元愛用者)。