僕は、人から恨まれるようなことをしてきているつもりはありませんが、それでも、シチュエーションとして、誰かから念を飛ばされているかもな、と思うことはあります。
のっけからオカルトな話ですが。
まず、感情が良くも悪くも念は飛ぶらしいので、極端に言えば、恋愛の片思いだって念は飛ぶってことなんでしょう。
それと、理性での納得と、感情としての納得は同じじゃないでしょう。理屈ではわかっていても、心がそれを納得できないとか、そういう場面はあり、そういう時にも念は飛ぶんじゃないかと。
理詰めで論破してゆくタイプの方は、そういう念を飛ばされることが多いのかもしれない。まぁ、そういうタイプの方は、そもそも念が飛ぶだのという話に興味はないと思いますが。
人生を、正しく、清く、とまではいかなくとも、無難に、慎ましやかに生きているその線上にあるイベントで、念を飛ばされることもあるんだろう、と考えると、実はそこいら中に念は飛び交っていて、だから逆に念という概念が持つ影響は、いちいち考えるまでもないのかもしれません。
ふと、客観的に今の自分を見つめると、もしかしたら飛ばされているかな?と思える状況がいくつか見当たります。
それは、理屈としては悪いことでもないし、妥当なことではあると思うのですが、それだけでは解決しない感情というもの。悪くないから出せない感情。それが、念となってしまうこともあるんじゃないのかと。
ありふれていて、いちいち考えるまでもない、とは言いましたが、それでも日本語には「残念」とか「怨念」とか、念、がつく言葉がたくさんあります。雑念、邪念、探すとキリがないですね。
いい意味であろう「記念」なんて言葉もありますから、ほんと、人はぽんぽんと念を飛ばすのでしょう。
この、念がもたらす何かしらの影響が、あるのかないのかがオカルトである部分ですが、僕は、信じているタイプです。