賀正。
年始のご挨拶は別記事とし、ここでは本年の妄想始めをさせて頂く。
人生で四十数回目の正月を迎え、なんとなくこどもの頃の正月を振り返ったり、あと何回、正月を迎えることができるのか、とかを、暇にまかせて考えていたのだが。
過去から未来へ一方通行で流れていく、というのが、昔から人間が抱く時間への考え方だ。
アインシュタインにより不変の座を光へ譲ったものの、学問から離れれば、やはり時とは川の流れの如く、ひたすら未来に向けて流れていくものという感覚はある。
止まってほしい、戻ってほしい、と願う人々の気持ちを踏みにじって、ひたすら一方通行で流れていくものだ。
そして、賀正である。
正月というのは、定期的にやってくる。一方通行なはずなのに、定期的にやってくる。
厳密には、前回は2021年がやってきて、今年は2022年がやってきた。たぶん、次は2023年がやってくるだろう。
という風に、全く同じ正月がリピートするわけではないが、人は、時間にマーキングをし、また、ループを求める。
誕生日もおそらくまたやってくるし、クリスマスもやってくる。
例えるなら。
川の流れに任せて小舟でたゆたっている。山が大きく見えていて、すごいでかいカッコいいとはしゃいでいたら、森の中に入ってしまい、さっきまで見えていた大きな山が隠れてしまった。
やがて森が途切れ、また向こうに雄大な山が見えたとき、小舟の人は、再び目出度い目出度いとはしゃぐ。
そんな感じだろうか。
時間というのは、科学というより、文学とか、文系の学問のほうがしっくり来るように思う。
科学が発展した2022年も、変わらずサンタクロースの存在を信じる子供たちがいるように、どれだけ科学が時間というものを分析、解析しても、時は変わらず未来へ向けて、川の如く流れ続けるのだろう。
それこそ、人が時間を操れるほどに進化した時には、時の流れに代わる何か不変なるループを、見いださなければならないかもしれない。
それは、今まで何千年と人類がたゆまず数え続けてきた「時」を、やめるということだ。