友人がいない人、の中には、好きこのんで友人を作らない人もいるでしょうし、友人を作ることが下手で友人がいない人もいるでしょう。
今日は後者の話なんですが、これは、私自身がそうですし、いわゆる配偶者もそうです。
特に、大人と呼ばれるようになってからは、まず友人というより知人という括りにカテゴライズされ、そこから友人へと発展する、というのはなかなか難しいと思います。
十分に自我が確立されているから、とも考えられますが、もともと友人作りが下手な私には、正解がわかるはずもありません。
ただ、友人がいない、という現実を客観的に見つめて、いないなりの人生を組み立てようとするには、友人がいる、という経験もあって初めて客観性が持てるのでは、と考えます。
で、客観的に、友人がいることのメリット・デメリットを比べて、どちらが自分にとって正しいのか、と。
客観的に友人がいない、ということを考えられないと、偏る可能性があると思っています。
もちろん、友人をつくるのが下手な人は、都合よく友人がいた経験もあるわけでもないですから、みんながこういう分析ができるわけじゃありません。
それに、友人がいた経験がある、ということは、今はいない、ということであり、それはそれで、また別の課題を含んでいるようにも聞こえます。
さて。
いわゆる配偶者は、友人が欲しい、と思う、友人がいない人です。
配偶者の言う「友人が欲しい」は、あくまで配偶者の中での友人像、関係像があって、それを満たす存在、ということになるので、妄想、と呼ばれる部分があると思います。
で。
今の職場には、部署は違うのですが、同期と呼べる人がいるらしく、配偶者は同期だし仲良くしたい、と考えていたようです。
ですが、共に過ごすにつれ、その人の「問題」が明らかになり、その人はまわりから距離を置かれていたようです。
そんなだから、その人も自然と配偶者に近寄るようになり、配偶者はそれを、仲が良くなった、と解釈していたようです。
そして、事件は起こります。
セキュリティ上重要となるモノの紛失事故とのことです。
失くしたのはその同期の人のようですが、相談された時のことを会社へヒアリングで伝えたのだそうですが、どうやら全く真逆のことを同期は言っているようで、配偶者が嘘つき、という感じらしいです。
それでいて、その後も、発注間違えちゃったどうしよう、とか、困った話の相談をいまだに持ちかけてくるそうです。
それをいちいち対処してあげているようなので、少し強く説教しました。
それは、友人ではなく、同僚でもない、ただの便利使いだ、ということに気付け、と。
その発注間違いだって、問題になれば、またその人は裏切って配偶者を嘘つきだ、と言うに決まっている。自分はやっていない、とか、配偶者に指示された、ぐらいは言うだろう。ただの隠れ蓑でしかない。
そして、友人が欲しい気持ちに付け込まれるのも問題だが、それ以前に、そういう人間が寄ってくること自体も、よく考えないといけない。
そんな話をして、配偶者も(´・ω・`)とした顔になっていましたが。
悲しいけれど、世の中すべてが「やさしい世界」ではないので、友情が生み出す感動ストーリーを映画やドラマで見聞きして涙するのはかまわないけれど、そういうことは、滅多にないから「映画・ドラマ」なわけで。
当たり前のように嘘をつき、人を騙し、出し抜いて陥れて生きている人もたくさんいるのだ、ということを、嫌でも理解しないとならんですね。
と、えらそうなことを言えるほど私自身、人間関係は得意でなく、というか不得意なので、他山の石とせず、気をつけようと思っています。