朝、けっこうな頻度でバスが一緒になるご老人がおるんですが。
フリーパスで乗っているので、それなりのご年齢なのでしょう。
足腰はまだそこまで弱くはなさそうですが(バス停までしっかりした足取りで歩いてくる)、バス内では座席を求めてけっこう強引に動いてくる方です。
バス内は揺れますし、歩けるから、というだけで「立っていられる」とは言い切れませんけども。
先日、私と一緒に乗り込んだその方は、何やら座っている若者に言って、席を譲ってもらってました。
私はいつとイヤホンをして音楽を聴いているので、その言葉の内容はよくわかりませんでしたが、漏れ聞こえてくる声のトーンや、席を立った若者の雰囲気からして、譲られた、というより、譲らせた。さらに言えば「立たせた」という印象の出来事だったようです。
席を譲ってもらうこと、そういう立場であることを自覚するのはかまいませんが、それをどう主張するか、で、印象は随分ちがいます。
最近は会わなくなりましたが、電車の方では、わざと大げさによろめいて足音をバタンバタンと立てて、譲られるのを待っている人もいました。
たまたま居合わせた人は騙されていますが、そこは通勤電車ですから、大半の人は毎日、その光景を見ています。なので、車内はしらけきっています。
私は座らないし座れないので、その人へ譲る、ということはしたことがないですが、まぁ、見ていて気持ちの良いものではありません。
しかも、収穫がない時の恨みのこもった表情は、なかなか鬼気迫るものがありました。
ちなみに、バスの方の高齢者に対しては、面倒くさいので空きが目の前にあればそのご老人を探し、まだ立っているようなら目配せをして先に座らせるようにしています。毒気に当てられたくはないので。
以前のブログで書きましたが、私がこの方々ぐらいの年齢になる頃は、おそらく立っている人も座っている人もみんな高齢者ですから、このようなパフォーマンスや行動には意味がなくなります。みんな平等、下手したらケンカになりますね。
過去の高齢者、今の高齢者、未来の高齢者。
それぞれ、一生懸命生きた末に受けられる恩恵は世代によって違いますが、未来は少なくとも、座席を譲る譲られる、といった「数字にでてこない恩恵」はなくなる可能性がある。
もっと未来、日本の人口ピラミッドが正しい形になった時まで、文化として残っていればよいのですが。
でも、その頃の日本は人口減でもあるから、譲る必要もなくなるのかなぁ。