信仰、ということに関して、日本はだいぶ特異な国であるような話を聞きますね。
日本には神様がおり、仏様もおります。
また、いずれも一神教ではないため、絶対的な存在というのが、まぁいないわけではないにせよ、世界の一神教とはだいぶ在り方が違いますね。
特に日本で言う神様というのは、元人間も含まれたりしますし、その性格も聖人君子とは違う、生身の人間のような感情の濃さがあったりします。
なので、接し方も人間に対するそれで、そんなに間違いはないんじゃないかと思いますし、逆にそうしておかないと怒りに触れる、みたいなことにもなるんじゃないかと。
私は、神様にあまりお願いはしないタチですが、それでも何かの願掛けのように参拝していれば、それはお願いをしていることと同義なのかもしれません。
なにか、願うことがあり神様のところへ行くのであれば、感情としては、その願いが叶おうと叶うまいと、その神様には感謝の気持ちを伝えるべきと私は考えるのですが、一般的にはどうなのでしょう。
人間同士で言えば、例えばビジネスでは「成功報酬」という言葉があるくらいですから、願いを叶えてもらえたら報酬を支払い、叶わなければお代は要りません、という関係もあります。
しかし、神様との関係は、契約書として明文化されておらず、またその方法も人知を超えたところであるはずで、願いが叶わなかったことについて、神様に一方的な責任があるか、というと微妙です。そもそも、願いを叶えなければいけない、というルールのようなものもないわけですし、勝手に願って勝手に叶わなかっただけ、とも言えます。
さらに言うと、これは私の感覚ですが、願いへの思いの強さや清らかさ、真摯さなどが重要で、まずは願う気持ちやその強さ、大きさが大事なんだと思いますし、そこにヨコシマなものが混ざっていれば、それはそれでイカンのだと思うのですよ。
つまり、神様が願いを叶えてくれなかった、というのは「責任転嫁」「言い訳」である、というのが私の考え方の一部にあります。
異論はあるんだと思いますが、そこまで思い詰めて願っているのなら、おそらく人は「神頼み」だけでは終わらないと思いますので、結局、原因自分論に行き着いてしまいます。
そんなわけで、2人で「通っていた」神様へ、願いが叶わなかった、ということで参拝をやめた配偶者。
私は叶おうと叶うまいと関係なく、自分の気持ちとして参拝を続けたいのですが、意見が合いません。
そのため、配偶者は多肉植物のお店におろし、その間に私一人で参拝をしてきました。
自分が正しい、と、酔うつもりはありませんが、神様に対しあからさまに利益を求めるのは、私には出来ません。
自分の思いが足りなかったのだ、と思わざるを得ないし、邪な気持ちがあったのかもしれない、とも思ってしまいます。
二人での行事が終焉を迎えたので、これからは私一人で、神様へ骨折りのお礼として、参拝を続けようと思っています。