調べずに一人で考えてみるシリーズ(謎)。
お墓参りは、年末と年始、どちらが正しいのか。
一年の汚れを落とし、綺麗な心身で新年を迎える、という考え方。これは、お墓に限らず家の中でもそうですね。
一方で、新年を迎えたら何にも優先してご挨拶をするためにお墓参りをする、という考え方。ご先祖様を大切にする日本の考え方によく合うと思います。
ま。年末も年始もお墓参りをする、というのが結局は本来の姿である気がしますし、ご先祖様を敬う日本人としてはそれが自然な気がします。
また、かつては家のそばに、家の敷地内に、一族代々のお墓があったりしましたから、今のようにお墓参り、というひとつの「行事」ですらない、日々の日課だったことも考えられます。そう、まるで家族に朝の挨拶をするように。
話が終わってしまうので考察を続けますが、結局、ご先祖様の存在をどう受け止めるのか、というところがポイントで、そこには宗教観というものも影響しているのではないでしょうか。
日本の場合は大きく神道と仏教がある、と考えると、もしかするとその違いに、行動の違いが現れるのではないか。
ざっくり、神道では人が神になったりします。徳川家康も神になっていますし、古くは菅原道真も神になっています。
また、仏教では、大乗仏教、と呼ばれる仏教は、人は皆、亡くなると仏様になる。
神と仏の違いがどう、という話ではなく、崇められ畏れられる高次元の存在になる、という意味では、近しいものがあります。この感覚からすると、ご先祖様は神様または仏様であるわけで、崇め畏れる存在であることになります。
ですが、仏教では本来、悟りをひらくために厳しい修行をします。そのうえで、悟りをひらければ仏となり(多少の語弊はあると思いますが)、悟れない場合はなれません。
まぁ、神道でも、誰も彼も神として祀られるというわけではないのでやはり似ているのかもしれませんが、こちらの場合、神になるために修行するわけでもないし、神になりたい、と思って生きている人もそんなにいないんじゃないでしょうか。
これは僕が学んだ考え方の一つで、定説としてあるのかはわかりませんが、神様になる人物というのはパターンがあると聞いています。
例えば徳川家康のように、偉業を成し遂げ、子々孫々を護るために神になる人と、不幸な人生を歩み、荒ぶる神となってしまい、それを鎮めるために神様として祀られている人。
いずれにせよ、本人が神になることを望んでいたか、というと、そうではなかったと思いますし、それは“悟り”を目指して修行した僧侶とは、志が違うと言えます。
振り返って、お墓参りを見つめ直してみると。
そこに神のような、仏のような存在を感じているのか、と考えると、あまりピンと来ないような気がしています。
では、どのような感覚が一番近しいのか。
結局、じいちゃんばぁちゃんに会いに来た、という感覚が一番しっくりくるんじゃないかと思います。
現役を引退したお年寄りだから、色々としてあげる。
もう歳で、体も自由がきかなくなってきたから、お部屋を掃除してあげる。
一族を次世代につないだ年長者だから、敬って、一番に挨拶をする。
その延長だ、というのが一番近いような気がします。
散々、神だ仏だと書き連ねてきましたが、生死を越えたところでの「じいちゃんばあちゃん」、身近な年長者へのありきたりの尊敬からくるものなのかもしれない、と。
そう思うわけです。