努力をする。
ただ、努力をしても報われないことはある。
それは、単にそれが社会だ、とも言えるのかもしれないし、努力の方向が間違っていたのかもしれないし。
正しい方向へ努力したら報われていたのか、と考えるのは、IFになるので、やはりわからない。
では、正しい方向へ向けて、改めて努力をしてみたらどうか、と言うと、やっぱりわからない。
その時、その場所で、というのは、二度と巡ってこない千載一遇のきっかけだからだ。
ただ、千載一遇のタイミングで、正しい方向を見つけて努力をしたとしても、まだ、報われるとは限らない、と言うことは出来そうに思う。
それは努力だったのか、という問いが残る。
好んで没頭することを、本人はあまり努力とは言わない。無意識に没頭しているのであって、努力しよう、という意識があったわけではないからだ。
自分が「努力している」と言えるようになるには、まず、努力している、という自覚が必要で、自覚するには、没頭するほどに興味がある事柄ではないことに、あえて没頭する、というシチュエーションがある。
または、物理的に、数字としてそこに費やした時間や費用を「見える化」して、努力の根拠とする必要がある。
そして何より、努力をしたかどうか、というのは、主観で語られる。
がむしゃらに動き回るのも努力だろうし、じっと座り、頭の中だけで延々と考え続けることも、努力と言ってしまえば努力なのだろう。
そんな、努力をしたのかどうか、という定義を考えつつ、自分は努力をしているのか?と考えると、答えが見つからない。
自分では努力しているつもりでも、それは主観でしかなく、世間的にそれを努力と呼んでいい程のものかどうかは、判断がつかないからだ。
君は努力しているね、と言われるときは、努力している自覚はなく、努力しているのになぁ、という時は、まわりからはそのように見えなかったりする。
努力、というもので話を進めたが、このようなことは、他にもたくさんある。
客観的に「○○している」ことが大切なのか、主観的に「○○している」ことが大切なのか。
なので、世の中に、努力していない人などいない、と思うことがある。
怠惰に生きているように見える人でも、怠惰な自分を克服するために内なる努力をしているだろう。
努力をしなければ、という努力。
努力をするためにどうすればいいだろう、と一生懸命考える、という、努力。
そして、これは自分に言い聞かせるための、主観的な努力が生み出した、慰めの「努力」の産物でもある。