kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

はてなブログ「今週のお題」

今週のお題「おとなになったら」


子どもの頃に思い描いていた「大人」というのは、全てにおいて正しく、人格者で、子どもには到底及ばないところにいる存在だったと思う。

例えば、親というのは、多くの場合は、子どもにとって世界で最初に触れ合う「大人」で、頭ごなしに叱られていれば、大人の言うことが正しく、子どもが考えることが間違っている、と受け止めざるを得ないし、親との関係が、この世界への最初の入り口であり、関門でもあるのかもしれない。


でも、大人になるとわかる。

大人って完璧ではなくて、子どもを大きくしただけなんだな、と。


夢や理想に向かってひたすら没頭する大人の姿は、美しくもあるが、子どもが遊びに夢中になる姿と、あまり変わらない。

ああだこうだと言い訳してサボろうとしたり逃げようとする姿は(それ自体が、完璧な存在ではない証拠でもあるが)、子どもの頃にもある姿だし、大人は、単に経験を積んで言い訳の質が上がっただけに過ぎない。


むしろ、言い訳の質をあげ、その実はただ生きているだけの大人より、遊びでもなんでも、何かに打ち込んで頑張る子どもの方が、よほど人間的にも崇高であるような気がする。



なんせ、自分がそんな存在である。


子どもよりも優れているところと言えば、人生経験の中で、身の程を知った、というところだろうか。いや、自分という人間の本質を知った、ということか。


得意と好きは違うとか、やりたいとやれるは違うとか、そんな大人ならではの屁理屈のように聞こえる言葉も、実際に大人になると身に染みるものであり、そんな中で夢や理想の在り方も変わってきたりする。


子どもの無垢な心で思い描く大人と、現実にはびこっている大人は別物で、それは身をもって知るとともに、だから、子どもの頃に理想としていた大人とは、違う大人になっていく。

子どもの頃に理想としていた大人になっているか、という問いに対しては、だからこそ、ノーと言う。


…というのが、ダメな大人の意見。

一方で、子どもの頃から確固たる理想を持ち、大人になってもそれを捨てず、ゆるぎもせず、しっかりと体現できている人もいるのだろうと思う。


こういう話においては、大人と子ども、という区分がまず間違っていて、立派な人間か、とか、理想を実現しているか、とか、そういう部分においては大人も子どももない。強いて違いがあるとすれば、理想をこれから体現するのか、体現したのか、あるいは諦めたのか、の違いだろう。


本題にかえって、おとなになったら、という意味では、想定とは全く違う大人になっているので、なんとなく、子どもの自分に申し訳ない気にもなる。

ただ、大人だからこそ知り得る幸せの形もあるんだ、というのが、唯一、子どもだった自分に言えることであり、これはとりもなおさず、大人の巧みな言い訳でもある。

この集中力、そして没頭力。