映画を、早送りしながら見るとか、
音楽を、歌っている部分しか聞かないとか、
なんか、そういう文化があるようですね。
その時代でのトレンドがあり、私はもはや古びた存在であり、時代に埋没していく側の人間なので、それらにどうこう言える立場じゃぁありません。
例えば、音楽の楽しみ方を「こうあるべきだ!」と力説しても、昭和生まれのオジサンがなんか言っているよ、と、あしらわれてしまうのでしょう。
そういうことが可能な世界になったから生まれた文化なのであり、それこそ「早送り」とか「頭出し」とか「ダビング」とか言う言葉を忘れられない私などには、そもそもついていけない、新しい芸術なのかもしれません。
私は冒頭の2つの文化しか耳にしたことはないですが、例えば写真や絵画といったアートも、楽しみ方は変わっているのですかねぇ。
絵画などと言えば、最近は、AIの作成した絵などが、ちらほらネット上に落ちていたりしますが、こちらの評判や楽しみ方はどうなんでしょうか。
そのような情報が出始めの頃は、いかにも感情のない存在が「それっぽく描いた」ような謎の絵でしたが、最近見かける絵は、言われないとわからないぐらいには、アートっぽくなっています。
結局、人という存在は、個人個人は別として、集団としては、芸術性より利便性、手軽さ、弾数の多さ、という方に流れていくのでしょうかね。
いまだ生き残る「昭和のオジサン」が声を上げ続けないと、芸術とは、たんに欲求を満たすために「体裁」を整え「手軽にそこらにある」だけの存在になるのかもしれません。
アートとは、人間では計り知れない存在であるAIが独占し、機械やコンピューターが無機質に制作した作品に、物知り顔で評論家が論評する、という、いかにも「踊らされた」世界が出現するのかもしれません。
それが、駄目だ、とは私には言えないわけで、人間がそれを選択してゆくのなら、それが新たなアートであり、文化なのでしょう。
なんとか問題という、コンピューターやAIが完全に人を凌駕するその時までは、まだ人が表現するものにアートとしての価値はあるのでしょうが、その後はどうなのでしょう。
人間のことだから、理解するセンスや能力はあったとしても、AIに意図して作られたブームに踊らされ、AIに作られた「芸術」「感性」を崇拝し、情報だけでなく、その感情や生物らしさなども、統制され、奪われ、制御されていくのかもしれません。
芸術性と利便性というせめぎ合いは、私個人の人生の中では、CDという媒体が出た頃からあるなぁ、と思いますし、自分はどうか、と言えば、やはり利便性の方に需要を見出していますので、知らず、コンピューターや機械に「統制」されていると言えます。
私が趣味としている作曲でもそうです。
昭和のオジサンなら、真空管アンプが紡ぎ出すギターサウンドが良いのであれば、それをどんなに真似たアプリやソフトがあったとしても、真空管が物理的にくっついていないと納得できないわけですが、今や、それらは全てコンピューターによって擬似的に作り出されていて、それを良しとする文化がある。
このままでは、本物の機材は、絶滅こそまぬがれるでしょうが、存在理由は「音のサンプリング」であり、現代における動物の絶滅危惧種に似た、生かされている存在になっていくような気がします。
という、えらそうな意見もまた、昭和の遺物であり、オジサンの戯言です。