仕事中は、気晴らしに何度か、会社のそばを徘徊します。
うちの会社は住宅街の中にあるので、人通りも多くなく、こうして暑さが収まってくると、なかなか良いものです。
近くに遊歩道もあり、ここ数日は金木犀の香りも漂っていて、仕事する気がなくなるほどです。
ただ、いつからでしょうか。
会社のそばだけでなく、自宅の近所でもそうなのですが、ワンちゃんの落とし物が増えたように感じます。
私の生活圏だけのことなら良いのですが、皆さんのまわりはいかがでしょうか。
私が子どもの頃は、今よりも多く見かけたもので、電信柱のふもとなどによくありました。
踏んづけてしまって散々な思いをしたことは、私世代の人にはまだまだいるのではないでしょうか。
ただ、しばらくは全く見ない、という状況でした。
私自身、何十年も犬を飼った経験がないので疎いですが、あの頃と違い、今では犬のマーキングも水で洗い流す光景を見かけますので、それがマナーなのでしょう。そんな中で、落とし物の処理は、ごく基礎的なマナーなんだと思います。
それが、最近また、見かけるようになった。
ただの歩行者である私が、落とし物に気をつけながら歩かないといけないこの感覚に、多少、懐かしさを感じたりもしますが、そんな悠長なことを言っている場合ではありません。
時と共に、モラルやマナーも遷り変わっていきます。
当たり前にやれていたことが出来なくなるのは、そういった人の行動を決定づける部分に変化があったのだろうか、と考えてしまいます。
たまたま、多くの無知な人が犬を飼い始めた、とも言えますが、しかし、犬の落とし物の処理は、街中でも当たり前に見かける行動ですし、犬を飼いたい、と思う人なら、学ぶでもなく学ぶマナーのひとつだと思います。
ということは、意図的に放置する人が増えた、と考えざるを得ないわけで、なんでそんなことになるのか、と言えば、そういったモラルやマナーへの理解、解釈が変わってきているのかな、と。
今でも言う話なのかわかりませんが、ゴミのポイ捨てが問題視されていた頃(今でも解決はしていませんが)、ゴミをポイ捨てすることで仕事の需要を満たしている、みたいな論調がありました。
ポイ捨てする人がいるから、それを奇麗にする仕事があるのだ、という理屈。その人たちの生活を守るため、ポイ捨てが必要なんだ、という理屈。
犬の落とし物についても、どこか、そういう理論が発生して、増えているのかな、と思ってみたりします。
私の頭では、犬の落とし物を片付けないことで、どのような社会貢献があるのか想像出来ませんが、そういう人達は、何かそういう理屈をひねり出し、その行動を正当化しているのかもしれません。
まるで流行り物のグッズのようにペットを飼い、飽きたら飼い主自身が保健所に連れて行く、なんて話も聞いたことがあります。
そのような人達であれば、当然、その理屈、理論には私ごとき思い及ぶわけもないのですが、本当に困るのは、真に犬が好きで、犬との生活をかけがえのないものとしている人達なのですから、困ったものです。
犬のことではなくとも、自分ではない誰かのせいで、結局、自分も巻き込まれて被害をくらう、なんて話は、巷によくあります。
例えば、喫煙者のマナーの悪さは、喫煙者全員の首を締めることになりますし、誰か、ないしは企業や行政の不手際のために、我々の税金が使われる、というのも、言ってみれば巻き込まれているようなものです。
理屈としては、巷にありふれたものですから、想像も難しくないはずです。
犬の落とし物。
私のまわりだけならよいのですが、もし全体的に増えているのであれば、そのうち愛犬家の首を締める何らかのムーブメントに、なっていってしまいそうな気がします。