kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

とある村。

その集落は、大自然の中にポツリと存在し、おおよそ数人から、十数人までの住人で構成されているようだ。

 

外部からは、一般名詞として、村、と呼ばれるが、固有の村名はない。必要がないからだ。

 

 

そこに住む人々は、朝起きたら働き、夜が訪れたら寝る、という、ごく原始的な暮らしを営んでいて、外界との交流はなく、仕事もすべて、村経済のためだけに存在する。

 

ただし、我々のような外来者が訪れても、住人が驚いたりはしないので、外界から人が訪れてくることは、たまにはあるのかもしれない。

 

 

住人にとっては、その十数人が「世界」であり、おそらく、村を出ることなく一生を終える。

 

もしかすると、世界とは、見える範囲の景色を言い、延々と歩いたその先に、また違う村や集落があるだろうことを、知らないのかもしれない。

 

 

どれだけ広く見積もっても、1km四方程度の範囲で、十数人の人間しか知らず、同じ毎日を繰り返し、亡くなっていく。

 

 

こんな生活は、どうなんだろうか。

幸せなのか?いや、知らないからこその幸せなのかもしれない。彼らには、我々が抱く思いを、理解できないかもしれない。それは、幸せなことかもしれない。

 

外来者で通りすがりの人に、そんなことを考えさせる、小さな、名もなき村。

 

 

と。

 

散々ひっぱりましたが、これは、マインクラフトという、ゲームに出てくる村の描写です。

 

この村、という存在は、ゲームの本旨に強く関わる部分ではない(と思われる)ので、微細な設定はされておらず、村の人達は、ごく原始的な生活を営んでいます。

 

仕事も、現代の我々が考えるようなものではなく、食べ物が欲しいから作物を植える、と言った具合いで、利益だの殖産だのと言った経済観念が関わってはいない感じです。

 

その割には地図を製作する職人がいたりしますので、厳密には、外界を全く知らないわけではないかもしれないですが。

 

とはいえ、隔絶された十数人の世界で、地図を作って生計をたてるのは、まぁ現実ではあり得ない。村を出ない住民には、地図は不要でしょう。

 

 

個人的にこのゲームをやることはほとんどなくなりましたが、とても自由度の高いゲームで、ストーリーのようなものはあるものの、別にそれに則る必要もなく、やりたいことをやってればいい、というゲーム。

 

私はゲームの中の広大な世界を歩き、こうして村を見つけるたびに、村人に、冒頭のような、どこか寂しさを伴う疑問を感じてしまいます。

 

まぁ、ここも本旨には関わらない部分なので、彼ら個々の性格や人生は、作り込んではいないでしょう。なので、彼らはなんの疑問も疑いもなく、延々と同じルーティンを繰り返すだけですけどね。

 

 

一番の問題は、その村にいつき、建築をしたり農業をしたりして、そこの村人化してしまう、自分です。

 

自分までがルーティン化してしまい、ゲームが進まなくなるのです。

意図的に人口を増やせます(単純)