純粋培養。
言葉の意味は、字面でしか判断できない。というか、こんな言葉があるのかどうかも知らない。頭にポッと浮かんだ言葉だ。私の脳の造語かもしれない。
何も足さない。
何も引かない。
なんか、昔、そんなCMのキャッチコピーがあったような気がするが、そんな感じに近い。
私の中だけで、私の要素だけで進化・発展するサマを表現した言葉だ。
なんの話かというと。
私は、なんの自慢にもならないが、音楽をあまり聴かない。これは、バンドを組んでいた頃からそうで、そりゃぁ今よりは聴いていたとは思うが、いわゆるリスナーとして聴く、ということは、生来、人より少ないと思っている。
誤解のないように言えば、音楽が嫌い、ということではなく、いい曲を聴けば、気分が高揚したりセンチになったり、色々と反応するし、好きな楽曲やアーティストもちゃんといる。
ここで言う聴かない、は、進んで聴くとか、聴きまくるとかではない、ということだ(とはいえ、昔からアーティストには疎いが)。
なので、私の始めた趣味である音楽は、より「純粋培養」に近いのではないか、と考えたりする。カッコよく表現するなら、バンドを組んでいた当時の私は、音楽を聴かない音楽家、みたいなものか。
これはけしていい意味ではなく、例えば、ラーメン屋があったとする。そこのラーメンは完全な「純粋培養」で、他のラーメンを参考にすることなく、店主が考えるラーメンを提供している。
このラーメン、果たして、ラーメンなのだろうか。
そもそも、その店主の中でのラーメンというものの定義、というものからして世間とズレてしまっていたら、それは我々がラーメンとはなかなか呼べない代物に進化してしまっていないか。
人は、経験から定義を設けて、例えば麺が入っているのか、スープはあるのか、出汁はなんなのか、など、ごく基本的なところで、我々はラーメンをラーメンと判断するのだろうし、それを提供する店をラーメン屋と呼ぶことが多い。
いくら店主がラーメンだと言っていても、出てきたそれがどう見てもチャーハンだったら、それは世間的にチャーハンであり、チャーハン屋である。
チャーハンになってしまったのならまだいい。
純粋すぎると、何やら得体の知れない「ラーメンと自称する何か」になっている可能性すら否定できない。
話がそれた。
そんなわけで、私の音楽は、「音楽と呼んでいる何か」という可能性があるのである。
さすがに、コピーバンド時代があるので、ある程度、当時のバンドマンが好む楽曲には触れてきたと思うし、日常生活のなかで耳に入る楽曲に影響もされてきているが、オリジナル曲を作るようになってからは、何も混ぜない純粋培養を意識して目指していたような気も、しないでもない。
なので、趣味として始めた音楽だが、世間様に「音楽を始めました」とは、なかなか言えない自分なのである。