今週のお題「鬼」
鬼にまつわるエピソードは難しい。
実在しないから、とも言えるが、鬼、という単語自体に、あまり馴染みのある生活をしていない。
また、鬼、というのは、わかるようでわからない存在でもある。
古くは、悪霊のことを指すこともあった。
といっても、随分と昔のことで、いつぐらいまでそのような表現があったのか、よくわからない。
恨みを抱いて亡くなった人の霊が、その念の強さのあまり鬼になってしまう、というような描写は、そういう方面の小説などでよく表現されていないだろうか。つまり、この場合、鬼とは元々、人間である。
また、子どものことを「ガキ」「ガキンチョ」「悪ガキ」「クソガキ」など、ガキと呼ぶことがある。
この「ガキ」は「餓鬼」が由来であり、一応、鬼という言葉がつく。この場合の鬼は、死者、亡者という意味とのことらしい。
地獄にいる餓鬼のように、食欲旺盛というか、食い物に寄ってくるというか、成長期の子どもの食欲や、やりたいこと、欲しいものに一直線な子どもの「欲」を、餓鬼になぞらえているとか。
ここまでが、鬼=霊説。さらに踏み込めば、元人間説。
次に、桃太郎。
この話に出てくる鬼は、外国人だった説。
船が難破したのか、事情はよく知らないが、漂流していた外国人がたどり着いたのが、日本のとある島だった。
そこで何とか自給自足の生活を始めた外国人を、日本はおろか、自分の村すら出たことのない日本人が見かける。
自分達とは体つきなどが違うものの、どう見てもそこいらの動物ではない。文明・文化も持っている。
なので、初めて見た時は、鬼ではなく「神」と思ったかも知れない、と思う。
しかし、もし外国人達が、生きるためにやむを得ず近隣の村で略奪などを働いたのだとしたら、それは確かに神の立場を逐われ、荒ぶる神、祟り神、または、鬼と言われたかも知れない。
もっと掘り下げれば、もし、自給自足がそのまま継続できる環境があったら。農業などを興せる環境があったら。故郷に帰る手段があったら。これらの鬼は、鬼として近隣を震え上がらせただろうか。
また、話は変わるが、冷酷、非情、温かみの欠片もない人に、鬼!と言葉を浴びせることもある。
今でもたまに「あんたは鬼か!」というような言葉を、聞くような聞かないような気がするが、現代では「鬼」というと「ものすごく」とか「めちゃくちゃ」という意味合いの形容詞的要素が強いのではないか。むしろ賞賛の言葉となっている。オニ速い、オニヤバい、とか。
いや、しかし既にその地位は「神」に譲った。神ってる、という言葉まであるぐらいだ。
ここまでが、鬼=人間説。元ではなく、現役の人間だ。
鬼って、守備範囲が広い。
視点を変えてみると、「泣いた赤鬼」のように、いい鬼もいる。
ここまでの話を踏まえれば当然で、この赤鬼や青鬼は外国人であるかも知れず、それであれば、なんらかの事情で山奥に隠遁生活を強いられていれば、ふもとの村のみんなと仲良くしたい、と思うのは、普通のことだ。多くは語られていないものの、人と仲良くなりたかった赤鬼のことだ。青鬼との友情にむせび泣いた赤鬼のことだ。この物語以前から、人間に悪さをしていたはずはない。根っからの「いいヤツ」だ。
そして、なまはげだって、いい鬼だ。
悪い子を探しているのであって、いい子に何かをすることはない。
そして、悪い子を見つけても殺傷をするわけではないので、ようは高校の生活指導の先生みたいなものだ。
総じて考えると、鬼、というのは、そもそもそんなに悪い存在なのだろうか。
いい存在、とは言わないが、元人間であったり、そもそも人間であったり、いいヤツのエピソードがあったり。
言葉だけでは、日本版「悪魔」のような印象がある鬼。
もし、鬼が鬼という種族として存在しているのなら、むしろ人を導くために、あえて心を「鬼」にして「鬼」でいるのかも知れず、それを鬼と呼ぶのは人間の側だ。むしろ心を鬼にできなかった鬼が、泣いた赤鬼のように人懐っこい鬼になるのであって、実は、鬼というのは「いい存在」なのかもしれない。
それ以外の鬼と呼ばれる存在は、いわゆる霊的なこと、嫌なことを結び付けて総称している、という感じだ。実在が確認されていないだけに、そのような役割を、人が鬼に押し付けてきたともいえる。
そして、これらの「鬼」が混同されていく。
節分。
掛け声は「鬼は外、福は内」だ。
ここでの鬼は、いわゆる「霊的なこと」や「嫌なこと」をひっくるめて作り上げた「鬼」だろう。
もし、泣いた赤鬼に豆を投げつけ「鬼は外!」などと叫んだら…
お前が鬼や!