kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

独り言。

私は、あまり物事を深く、よく考えずに育ちましたので、働く、ということを、自分の中で定義付けせずにきたと思います。

 

私が幼少期を過ごした時代と比べ、今は、働く、ということについて随分と多様な考え方があるんだなぁ、と思っておりますが、単に私が知らなかっただけかもしれません。

 

父親は手に職を持つサラリーマンだったので、身近な働き方としてはそれがスタンダードでしたし、特に仕事について父親から語られたこともなかったので、見える父親の姿を、子どもの視点で受け止めるだけでした。

 

自分は好き勝手やってきた人間ですので、手に職もないし、サラリーマンではありますが、成り行き上、といった感じです。

 

 

なので、今回、はてなブログで「働くこと」についてお題が出ているのですが、なんか、こんな私が仕事を語るのは申し訳ない気がして、参加はせずにこうして徒然草のひとつとして書くことに致しました。

 

 

現代では、人が生きていくために何かしらの経済活動に参加することが必要で、違う言い方をすれば、飯を買う金を得るために経済活動に従事することが求められる、ということですね。

 

昔、仕事というのは体の一部、血肉なんだと思っていましたが、これは父の影響でしょう。

社会人となり、自分と仕事との距離感は、また違ったものなんだと感じるようになりました。

 

もちろん、仕事=人生。そういう方はたくさんおられると思います。そしてそれは、素晴らしいことだと思います。

 

私は上記した通り、適当に生きてきて、行き当たりばったりでサラリーマンになっております。

そんな私が今、感じることとしては、自分の人生そのもの、と言える仕事に出会えていることは、収入とか、社会的立ち位置とか関係なく、自らの人生を真摯に生きてきた証だと思います。

 

特に昨今は、働くことと、金を稼ぐこと、というのが分離しつつあり、働く、という単語が、お金を貯めたり、不労所得を得るための手段として表現されることが多くなったような気がします。

「何をして働く」ではなく「働く」とのみ、表現されるといいますか。

 

それが悪いわけでもなく、むしろ仕事との、より正しい付き合い方かもしれないわけで、むしろそのように自分の仕事を振り返ると、じゃぁ自分は、仕事以外の何に重きを置いて生きていくのか、という問題に行き着きます。

 

 

これがまさに自分にはタイムリーでして、今の自分は、燃え尽き症候群のように、仕事に対して意欲が湧いておらず、また、柔軟な思考がなく、アイディアが生まれません。

 

社内ではまだ、頑張っていた、と言える頃の燃えカスのような評判が一部でくすぶっておりますが、あと数年で、私の存在を知る人はごく僅かになるだろうなぁ、と、他人事のように思っております。

 

 

そんなわけで、自分の人生の何に重きを置くか。そして、重きを置くべき何かが自分にあるのか。

そんなところから、再考しているところです。

 

ブログも、そんな中から始めたひとつです。他には、来年から色々やってみよう、ということで考えていますが、転職とか、新たな活動とか、そういう大それたものではありません。

 

ただ、惰性に生きて、世の中の流れに巻き込まれて怨み節を垂れ流すのではなく、何か、最期に「まぁ、なんだかんだでうまくまとまった」と言えるように、遅ればせながら変化を求めていこう。そんな感じです。

 

 

とりとめがなくなりました。

 

変わりゆく社会情勢、それに伴う概念の変遷と、特に今は変化のスピードすら加速度的です。

 

ただ、そんな中でも、原点回帰した概念などもあるはずで、仕事というものも、また、ひとつもふたつも、考え方、受け止め方が変わってくることでしょう。

 

なので、意欲がある限りは、何が正しいではなく、これが正しい、で突き進むしかないと思うに至るわけです。

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