国語の授業で、
「この時の、○○の気持ちを答えなさい」
とか、
「この部分における作者の気持ちを答えなさい」
のような、気持ちを読む、または空気を読む、という問題は、大得意ではないにせよ、苦手ではありませんでした。
国語は総じて成績は真ん中より下になったことはなかったと記憶しております。
ですが、だからといって、私が他人の気持ちを汲める人か、というと、それはわからないわけですね。
感情を読むとか、気持ちを察するとか、そういうことが出来たとしても、結局、そこからどのような答えを自分が導き出すかによって行動や結果は変わりますので、
「空気を読んだうえで空気を読まない行動をする」
という結果も、あるんじゃないかと思います。
例えば、痛い、という感覚がありますが、こなような感覚は、共有が難しいものですよね。
痛いのはわかる。
どの位痛いのか、という度合いや、どのように痛いのか、というニュアンスなどは、痛い人も主観的に言うしかありませんし、言われる側も、自分の経験を掘り返して、近いニュアンスを探るしかない。
度合いなどは、同じ病気やケガを体験していれば、自分の経験から、人により「大袈裟だ」と判断したり「うわぁそりゃ痛いね」と、おおいに同情したりもします。
例えば、痛みに鈍感らしい私は
「痛みを擬音に喩えて言葉にする」
という無理矢理感に全く馴染めず、はぁ、そうすか、ぐらいしか反応できません。
シクシクする、とか、言葉から痛みが全然想像できなくて、まぁ、すごい激痛とか、そういうわけじゃないのかな、ぐらいしか予想ができません。
鈍痛という言葉も、なんとなくピンとこず、やっぱり「激痛ではないのかな」で推測完了してしまいます。
個人的にはビールみたいな表現ががよいんですけどねぇ。
「キレ」なのか「コク」なのか、という感じですかね。私の中で鈍痛は「コク」系です。
話が逸れました。
そんな私なので、全般的に、私は他人の気持ちを汲める人なのか、というのは、長年の疑問です。
国語の授業のように、型通り「汲んだ答えをしている」だけなのかもしれない、と思っていますし、じゃぁそれは「気持ちを汲んだことになるのか」「汲んだフリでしかないのか」、そこもよくわかっていません。
なので、自分が考える自分は、「とても薄情でドライな人」である時もあるし、「気持ちに寄り添える優しい人」である時もあります。
そして、これは生涯、答えの出ないものなんだろうなと。主観でしか測れない何かを他人の主観と比べる、というのは、至難の業と思いますから。