kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

バチがあたるということ。

至誠、天に通ず、という言葉がある。

まごころをもって事に当たれば好結果がもたらされる。

引用:goo国語辞典


個人的な意見ですが、けっこう日本人の心を汲んでいるというか、むしろこの言葉にかつての日本人が傾倒していったのか。
今は少し違うかもしれませんが、私世代などは、このような教えを表立ってではないにせよ受けてきた気がします。

結果が伴わないということは、真心がなかったんだ、正しくなかったんだ、という論法にもなります。
さらには、正しいことを行っていれば必ず結果がついてくるはずなのだから、結果が出ないのは自分が悪い、ともなります。
余談ですが、これがまわりまわって、日本人の「ディベート下手」につながっているんじゃないかとも、個人的には思っています。
まぁ、これも過去の話。今の日本人のディベート力がどうなのかは、私はわかりません。


さて、この「至誠、天に通ず」をネガティブに表現すると、ややニュアンスはずれますが「お天道様が見ている」になりますね。
至誠が天に通ずる以上、「不誠(?)」も天に通じます。
悪いことを隠れてやっても、お天道様が見ているから、ごまかせない、という感じです。
だから、何事も、清く正しく、真心をもって臨むようにしましょう、ということだと思います。


またまたこの「お天道様が見ている」を掘り下げると、今度は「バチが当たる」になります。
これは、仏教用語ではないようですが、似たような響きのある「因果応報」は、仏教用語ですね。
バチがあたる、は、因果応報のネガティブな活用法で、悪いことをしたら、悪い報いを受ける、がその意味するところです。


と、なんでこんな堅苦しい話をしているかというと。


私、けっこうな「バチがあたる」信者なんですよ。
たいていの場合は、大人へと成長する過程で、悪いことをしていてものうのうと過ごしている人を見て、「バチが当たるなんて嘘だ」と感じ「バチ当たり教」から脱会するものですが、なぜか私は残り続けてしまいました。


でも、この「バチが当たる」というのが、本当か嘘か、ではなく、自分を戒める言葉として自分の中にあります。

何か嫌なことや、よくないことがあった時に、「最近、なんか悪いことやっただろうか」と振り返ることになり、それは、自分の行動や思いを振り返るいいきっかけになります。
ここでの「悪いこと」は、法的に、とか、社会常識として、といったわかりやすい部分ではなく、何か自分がとった行動の「思惑」とか、「事に当たる心構えがよくなかった」とか、そういう、自分の中だけで成立する「悪いこと」ですね。

なので、悪いことがあった時に、それを引きずらないようにする手段でもあります。
悪いことをしたのだから、悪いことがあっても仕方がない、と。諦めがつくといいますか。
逆に、こんな心構えでは、あとでバチがあたるんじゃないか、という、不誠実につながる行動の抑制にもつながります。


これを、人生という長い舞台で考えた際、今の生き方が、自分の最期を決めることになります。
これも、ご高齢の方だとたまに言っていたりしますが、「畳の上で死ねるかどうか」は、今の行い次第ということになります。

今、私は金がない金がないと騒いでおりますが、これもなにかの「バチ」と捉えることが出来ます。
自分としては、特に間違ったことはしていないと感じていますし、その時々で後悔しない判断をしてきたつもりですが、この結果ということは、どこかに慢心や悪意といったものがあったのかもしれません。
逆に、これからは誠実に生きていかないと、ずっとお金には困り続けるとも言えます。


という風に、自分への戒めとして「バチが当たる」を、いまだに信じています。


いえね、先日ひとつ、いやな事がありましてですね。
何かのバチか、と、いつものように振り返っておったわけですが。


今の自分、思い当たるフシが多すぎて…。
f:id:KE-KE:20211123190303p:plain