kekeの考えること

こういうことを考えてる人もいるんだなぁ

思惑と結果。

どのような思惑であろうと、それが結果として何かの役に立ったり、為になったり、ということがあります。

なので、「社会に迷惑しかかけなかった」ということは、もしかしたら、有り得ないのかもしれません。自覚した行動として貢献していなければ、「まわりに迷惑しかかけていない」とか「悪いことばっかりしている」と思ってしまいますが、無自覚に行った行為が、誰かの役に立ったことや、心を、命を救ったことが、実はあるかもしれない。
もちろん、それ以上に余りある「罪」を抱えている人は、だからそれで酌量されるとか、そういう意味ではありません。

そのように、意識せず、思いがけず誰かの役に立っていた、というのは、究極の利他的行動となるわけですが、そんな風に難しく考えなくともいいと思います。善とか悪とかを超えたところで、個々の意識にのぼらないところで、このようなプラスマイナスがある、ということです。


何が言いたかったんだっけかな。

なので、よく「自分が立ち去った後」とか、「自分がいなくなった場所」なんかを想像してみたりします。

私が、ついうっかり引き出しに戻すのを忘れてしまったあのモノサシが、もしかしたら誰かに何らかの影響を与えたかもしれない。

私がうっかり事務所の施錠をし忘れたおかげで、誰かが大事な忘れ物を引き取れたかもしれない。

そのひとつひとつの私の「うっかり」は、褒められたものではないし、むしろどうにかしないといけない自分の欠点ではあるものの、それが誰かを救っているかもしれない。


逆に、私が経験した「助かった~」と感じたものは、もしかしたら誰かの、誰かに対する迷惑行為の結果なのかもしれないし、違う誰かを貶めた後の残骸だったのかもしれない。


まして世間では、あまりにわかりやすい美辞麗句で、その本質をなるべくオープンにしないことはたくさんあります。
そこには、お金の匂いがプンプンしたり、検索したらアンチだの被害者の会だのがヒットしたりすることもあります。

それでも、そんな何かに結果として救われた人も、探せばいるのかもしれない。

なんか、そんなような話の漫画を昔に読んだ記憶があるのですが、思い出せません。手塚治虫だったかなぁ。


つまり。


どんな思惑がそこにあるにせよ、自分の知らないところで、それをきっかけに救われる人がいるかもしれないし、思いがけず社会の役に立っているのかもしれない。

 

なので、どのような思惑でもよいので、このブログの読後に、読者ボタンとかリンクバナーなどをポチっと押す行為は、少なくともあなたの気付かないところで、私を救ったことになるのです。はい。

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